イスラエル人たちは何もない荒野を40年間かけて移動しました。食べ物も水もない荒野の旅ですが、でもその宿営の中心には神様がいつもおられました。神様ご自身が言われます。
(申命 31:6)
強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。
主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。
神様はイスラエル人たち男性だけで約60万人の中心に確かに住み、その住まいは「会見の天幕」と言われるものでした。神様がおられる天幕には昼は雲の柱が、夜は火の柱があって、確かに神様がそこにおられることが誰の目にも明らかでした。神様はイスラエル人たちの間に住みたいと願い「わたしはイスラエル人の間に住み、彼らの神となろう。(…中略…)彼らの間に住むために、彼らをエジプトの地から連れ出した…」と言われます。(出エジプト29.45-46)
ところが、人が神様に近付いたり触れたりすると殺されてしまいます。神様は罪と交わることができず、かつ全ての人には罪があるので、そのままでは交わることができません。この「会見の天幕」は人が神様の怒りに触れて殺されないための安全柵のような、仕切りのような役目がありました。人が神様と交わるためには罪がきよめられ、神様の怒りがなだめられる必要がありました。そのための厳重に区別されているのが中心にある会見の天幕です。
人々は神様がおられる天幕を見つめるような形で周りに宿営します。その中心は神様がおられる天幕であることを感謝しつつ、でも神様の怒りに触れることがないように罪のなだめの儀式に仕えるレビ人たちがその天幕に仕えていました。
(1章52-53節)
イスラエルの子らは、軍団ごとに、それぞれ自分の宿営、自分の旗のもとに天幕を張るが、レビ人は、あかしの幕屋の周りに宿営しなければならない。わたしの怒りがイスラエルの会衆の上に臨むことがあってはならない。
全ての力と恵みは神様から与えられます。同時に聖なる方はほんの少しの罪も嫌う方です。神様の天幕が彼らの真ん中にあったのは「怒りがイスラエルの会衆の上に臨むことがあってはならない。」ためです。(1.53)この恵みと力、そして聖さに満ちた神様を中心として、「距離を置いて」その東西南北に部族ごとに宿営する場所を決められ、移動するときには東側の部族、南側の部族、真ん中のレビ族、西側の部族、最後に北側の部族、という順番が決められていました。
(2章2-9節)
「イスラエルの子らは、それぞれ自分たちの旗のもと、自分の一族の旗じるしのもとに宿営しなければならない。会見の天幕の周りに、距離をおいて宿営しなければならない。前方、すなわち東側に宿営する者は、軍団ごとのユダの宿営の旗の者でなければならない。ユダ族の族長はアミナダブの子ナフションである。彼の軍団は、登録された者が七万四千六百人である。その隣に宿営するのはイッサカル部族であり、(…中略…)その次はゼブルン部族で、(…中略…)その軍団ごとに登録された者の総数は、十八万六千四百人。彼らが先頭を進まなければならない。
以下、同じように南側に3部族151450人(10-16節)、真ん中にレビ族と会見の天幕(17節)、西側に3部族108100人(18-24節)、北側に3部族157600人(25-31節)の場所が決められ、移動する順番が決められています。彼らの移動はいつも神様が中心です。そして宿営するときにはいつも会見の天幕が見える形でぐるっと囲むように宿営していました。そこにはいつも雲の柱、火の柱があり、さらに罪のために殺された動物が焼かれる煙が上がり続けていました。
彼らの宿営の中心は神様です。しかも、罪を赦して人間と交わり、人の間に住みたいと願ってくださる神様です。会見の天幕にはいつもなだめのために殺された動物の煙が上がっていました。
今は会見の天幕はありません。イエス様が十字架で処刑された時に幕は裂け、罪のためのささげものは不要になり、僕らは聖められて大胆に神様に近づくことができるようになりました。(ヘブル10.18-20)僕らが毎日見つめるのはイエス様の十字架の恵みです。イスラエルの宿営の真ん中は会見の天幕でしたが、今は僕らのこの肉体が神様の住まいとなりました。僕らの肉体は神様の住まいだし、(1コリント6.19)2人でも3人でも教会が交わる時にそこにイエス様は臨在され、(マタイ18.20)その交わりは人間の交わりではなく御霊の交わりと呼ばれます。(ピリピ2.1)僕らは神様を中心として一緒に感謝して一緒に祈ります。今日も僕らの生活の中心は神様です。いつも神様を見あげながら宿営しましょう。今日も神様は僕らを赦し、受け入れ、一緒に住みたい、語りたい、と願ってくださっています!ハレルヤ!
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