パウロはイエス様を伝えていく先々で迫害に会い、罵られ、逮捕されたり監禁されたりしました。なぜそこまで反対されながら伝えるのか?それはパウロがもはや自分のための人生ではなく、人が生かされ、人が赦され、人が祝福されるための人生だからです。
そもそもパウロのやる気ではなく、聖霊がパウロを捉え、パウロも聖霊に明け渡しているからです。自分のやる気とか自分の目標でやってるのではありません。イエス様は言われました。
(使徒1:8)	
しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
言われた通りにパウロは伝道しました。それはいつも敵に囲まれ苦しむ歩みでした。彼は言います
(18-21)
パウロはこう語った。「あなたがたは、私がアジアに足を踏み入れた最初の日から、いつもどのようにあなたがたと過ごしてきたか、よくご存じです。私は、ユダヤ人の陰謀によってこの身に降りかかる数々の試練の中で、謙遜の限りを尽くし、涙とともに主に仕えてきました。
益になることは、公衆の前でも家々でも、余すところなくあなたがたに伝え、また教えてきました。
ユダヤ人にもギリシア人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰を証ししてきたのです。
これは人間から出た力ではなく神様ご自身の働きです。パウロは人ではなく「主に仕えてきました」(19)イエス様が迫害を受けるなら、イエス様の働きをする時に必ず同じように苦しみを受けます。でも、それはイエス様の体の一部とされたことのしるしです。イエス様が謙遜の限りを尽くして罪人を忍耐されました。だからイエス様の御霊を受けた僕らも忍耐するようになります。パウロの力でも僕らの力でもありません。
苦しみや反対を受けても、人々に悔い改めてイエス様を信じるように伝えるのは良いことです。なぜなら、人は赦され、永遠のいのちを受け、祝福されるからです。福音は相手にとって益です。パウロは「益になることは、公衆の前でも家々でも、余すところなくあなたがたに伝え、また教えてきました。」と言います。(20節)僕らの人生も同じです。自分のための人生ではなく、人が生かされ、人が赦され、人が祝福されるための人生です。もちろん苦しみはあります。「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。」(ピリピ1.29)それでもパウロにとって、恵みの福音を伝えることはいのちより大事なことでした。
(24)
けれども、私が自分の走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません。
僕らも同じ御霊をいただいています。御霊は僕らを用いて悔い改めとイエス様への信仰を伝えています。僕らの人生が自分のためのものでなく、イエス様のものでありますように。人生はイエス様のもの、全てはイエス様のものです。ハレルヤ!
 
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