2022年12月13日火曜日

エゼキエル23.25-31

僕らは問われています。「本音は何?」と。神様を信じ礼拝することさえ、本音は神様ではなく自分の利益、評判、儲けのためであることがあるからです。特に教会で指導的な人は危険にさらされています。祈りさえ「ああ、なんて素晴らしい祈りの人だろう」という評判がつきまといます。聖書は繰り返し「栄光が神様にあるように」と言います。(ローマ11.36、ルカ2.14、ガラテヤ1.5、エペソ1.6、14、3.21、ヘブル13.21、2ペテロ3.18など多数)ニセの指導者は自分の栄光と富を求めます。しかも、その人は「神様はこう言われる…」と口にして人を動かし搾取します。そんな彼らに神様の怒りは激しく彼らに注がれます。 (23-26) 次のような主のことばが私にあった。「人の子よ、この都に言え。『おまえは憤りの日にきよめられず、雨も降らない地である。そのただ中には預言者たちの陰謀がある。彼らは、獲物をかみ裂きながら吼えたける雄獅子のように人々を食らい、富と宝を奪い取り、その町にやもめの数を増やした。その祭司たちはわたしのおしえを冒瀆し、わたしの聖なるものを冒し、聖なるものと俗なるものとを分けず、汚れたものと、きよいものとの違いを教えなかった。また、彼らはわたしの安息日をないがしろにした。こうして、わたしは彼らの間で汚されている。 (27-28) その町の高官たちは、獲物をかみ裂く狼のようだ。人々の血を流し、たましいを滅ぼして、自分の利得を貪っている。その町の預言者たちはむなしい幻を見、まやかしの占いをして、漆喰で上塗りをし、主が語っていないのに「神である主はこう言われる」と言っている。 指導者がニセモノで神様のことばよりも自分の富や栄光を求めると、それを聞く民衆も同じように堕落し国全体が滅んでいきます。 (29) 民衆も虐げを行い、物をかすめ、窮する人や貧しい人を苦しめ、寄留者を不法に虐げた。 神様との交わりがなければ人は自分のことを求めるだけです。教会にいるとはいえ、利己的で、ファッション、利益、評判のために生きています。その人は自分を捨てることはせず、主のために自分をささげることもしません。彼らが「主よ」と口にすることは、自分の利益のためです。特に指導者は責任重大です。聖書は「多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」と言います。(ヤコブ3.1) 今日も問われています。「本音は何?」と。「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。」(ピリピ2.21)今日も栄光がただ主にのみありますように。 (詩篇 115:1) 私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。

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