ヨブはどうして自分が苦しむのかと悩み苦しみます。 苦しむヨブに、友人ビルダデは冷たい正論を投げつけます。それは「黙らせるため」です。
(1-2)
シュアハ人ビルダデが答えた。
主権と恐れは神のもの。神はその高い所で平和をつくられる。
彼は、神様は自分の意思に従って何でもできる権利を持っていることをヨブにわからせようとし、黙らせようとします。神様にに向かって「あなたは何をしようとしているのか」「なぜあなたはそうしようとしているのか」と言うことはできない、とです。(ダニエル4.35)神様は恐るべきです。 天使たちでさえ、 神様の前では顔を覆っています。(イザヤ6.2)
天使たちだけが神様に完全に従うことができ、「神はその高い所で平和をつくられ」ます。天では争いも苦しみもありません。
だけど、地上にいる人間は汚れていて、不完全で、人間がいくら「私は正しい」と言っても、正しい人はいません。
(4-6)
人はどうして神の前に正しくあり得るだろうか。女から生まれた者が、どうして清くあり得るだろうか。ああ、神の目には月さえ輝きがなく、星も清くない。まして、うじ虫でしかない人間、虫けらでしかない人の子はなおさらだ。
神様から見るならば、人間は腐ったからだにわくウジ虫のように、弱く小さくちっぽけです。人間が虫を殺すよりも、もっと簡単に神様は人間を殺すことができます。それは本当です。ですが、そんな人間を神様は愛しておられます。ウジ虫ではなく栄光の似姿に変えようとしておられます。友人ビルダデは瀕死で苦しみ、身体中がウジ虫がわいているヨブに対して踏みつけるように言います。ビルダデが言っていることはある面では本当ですが、そこには愛も憐れみもありません。
神様に見捨てられ、 ヨブの側に立ってくださるのはイエスキリストです。 イエス様は十字架の上で苦しみながら詩編22編(わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか)を引用されました。それは「私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。」と続きます。(詩篇22.6)
殺される虫けらのような存在となって私たちを憐れみ、愛し、身代わりに死んで下さったのはイエス様です。ビルダデが言うように、正しくない、きよくない僕らです。そんな僕らがイエス様によってきよめられました。
僕らは神様との平和を持っています。きよめられ、義とされ、受け入れられています。今日も大丈夫です。ハレルヤ!
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