2022年12月23日金曜日

ローマ7章1-13節

 ローマ7章1-13節「キリストはあなたを自由にします」


今日のタイトルは「キリストはあなたを自由にします」 です。今日のメッセージを聞いた後、今日の帰りには皆さんが自由になり、喜びと平安と愛の中、安心して帰ることと願っています。それが目標です僕自身が最近喜びと平和と感謝を失っているな、と感じていました。自分に教えられているメッセージでもあります。


●6章のあらすじ


ローマ人への手紙6章の中で何度も丁寧に繰り返されているのは「あなたはキリストと一緒に死んだのだ」と言うことです


(6章3-4節)

それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたです


(6章5節)

私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです


イエスさまを信じる人は、イエス様とつながり一体となったと見なされます。それをギリシャ語でバプテスマと言います。浸すとか、一体になる、という意味があります。


イエス様が十字架の上で神様からの怒りと呪いを受けて死んでくださいました。そのイエス様と一体だから、あなたも「キリストとともに葬られたのです」「私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっている」キリストと一緒に神の裁きを受けて死んだ、と見なされるし、それを認めなさい、というのが6章です。死んだ人は罪から解放されています。


(6章6-7節)

私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです

死んだ者は、罪から解放されているです


私は時々葬儀を担当しますので、ご遺体を牧師室にお預かりすることがあります。長い時では2泊お預かりする時があります。私はそのご遺体が収められている棺をそっと開けて、中の遺体を見ることがあります。当たり前ですが話しかけても反応がありません。

死んだ人は罪をすることがありません。誘惑を受けることもありません。完全に解放されています。だから、6章7節は「死んだ者は、罪から解放されているのです」と言います。


さらに、死んで終わりではなく、今度は新しい命であるイエス様と一体とされました。罪をしちゃうような私ではなく、良いことしかしない新しい命と繋がった、と言います。


(6章4節)

ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです


(6章8節)

私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています。


これがそれがローマ6章のあらすじです


●私たちは律法に対して死に、キリストと結婚しました。


今日の箇所は、あなたは、律法に対しても死んだとみなされる、という箇所です


(4節)

ですから、私の兄弟たちよ。あなたがたもキリストのからだを通して、律法に対して死んでいるです


律法とは、旧約聖書に書かれた神様の教えですそれが縛りとなって皆さんを厳しくチェックし、重圧となり苦しみとなっていたかもしれないけど、イエス様と一緒に死んだと見なされることは、律法とも死んでお別れしたのです、と言います。


イエス様を信じてキリスト教に入信すると、あれダメ、これだめ、酒はだめ、タバコはだめ、下ネタはだめ、日曜は礼拝出席、献金もしなさい、祈り会も出なさい、学びもしなさい、というルールが増えると思っている人がいるようですが、実はそのように人間を縛ったり苦しめたりする教えではありません。もちろん聖書を読むと、性的な罪はやめなさい、酒によってはいけません、集まるのをやめてはいけない、書いてあります。でも、それが強いられて、イヤイヤながらさせられているなら、それは神様にとっても耐えられない、虚しいささげものだとと聖書は教えます。その心が離れているのなら、私を拝んでも無駄なことである、とイエス様もおっしゃいます。(マタイ15:8)


律法とは、ユダヤ人たちに与えられた教え、戒めです旧約聖書に書かれています。

それを守ることによって祝福される、そのルールを破るなら呪われる、という縛りや恐れは終わったのだ、と今日の箇所は言います。

まるで結婚生活が相手の死によって終わるように、イエス様を信じてイエス様と一緒に死んだ時に、僕たちは律法との関係も終わったと聖書は言っています。話をわかりやすくするために、結婚生活は相手が死んだら終わるのだ、と説明します。


(1節から2節)

1,それとも、兄弟たち、あなたがたは知らないのですか──私は律法を知っている人たちに話しています──律法が人を支配するのは、その人が生きている期間だけです

2,結婚している女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死んだら、自分を夫に結びつけていた律法から解かれます。


(3節)

したがって、夫が生きている間に他の男のものとなれば、姦淫の女と呼ばれますが、夫が死んだら律法から自由になるので、他の男のものとなっても姦淫の女とはなりません。


結婚している人が他の人と寝たらばそれは不倫であり姦淫の罪です日本の法律でも民法では不法行為とされて民事上の責任を問われます。けれども相手が死んで結婚関係が終わったならばもう自由です誰と再婚しても自由ですここで教えているのは結婚のルールではなく、クリスチャンは、律法に縛られる関係は終わったののだ、ということです律法に支配されることはもうない、ということです


昔は厳しい処罰を要求する律法という人と結婚していたかのようです。こうでなければならない、こうあるべきと言う律法は私たちを縛って守れなければ罰を要求します。あまりにも苦しいので、このぐらいはいいじゃないかここまでセーフなんじゃないかといろんな都合の良い解釈をして、なんとか自分を守ろうともがいてきました。しかし、そのように、自分を苦しめ押さえつける律法に対しては私たちは死にました。別れただけでなく、そして新しい命を、自由と喜びを与えてくれるイエスキリストと結婚し、結婚しただけでなく、神様に喜ばれる実を結ぶようになったと聖書は言います。


(4節)

ですから、私の兄弟たちよ。あなたがたもキリストのからだを通して、律法に対して死んでいるのです。それは、あなたがたがほかの方、すなわち死者の中からよみがえった方のものとなり、こうして私たちが神のために実を結ぶようになるためです


律法を要約すると、神様を愛しなさい、隣人を愛しなさい、ということです。律法に縛られて生きていたときは、もっと神様を愛しなさい、もっと隣人を愛しなさい、と要求されます。いつもチェックされ追求されます。あなたはそれでも隣人を愛してるんですか?あなたはそれで神様を愛してると言えますか?そうやって、自分は責められてきました。できないに、やれやれ、と言われます。ちょっとできたら自己満足で、できてない人たちを見下し、さばきます。できないと自分はダメな人間だな、と落ち込みます。そんな関係は終わりました。


できるかできないか、という行いによる評価で威張ったり落ち込んだり、他人を責めたり、責められたりすることは終わりました。今はキリストのものとなり、キリストの命が自分の命となり、まるで2人が一体になったように、結婚したかのようだと繰り返しています。教会に所属する私たちのことをキリストと一体とされているのだといいます。


(エペソ人への手紙5章31節から32節)

「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」

この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです


もう僕たちは律法に縛られる事はありません。この教会は愛があるとかないとか、この人は暖かいとか冷たいとか、そういうことを要求しあって、うまくいけば褒められてそうでなければ叱られるような苦しい生活は終りました。愛せなかったら罰を受け、もっとあれをしろこれをしろと責められる結婚生活はもう終了です。「あなたはちゃんとルールを守ってますか?」と評価されることもありません。自分を責め、他人を責める律法に対しては死に、今度はイエス様と結婚し、イエス様の御霊が私たちの中に生きておられます。しかも、イエス様は律法を全て実現する方です律法は実は聖なる良いものです。イエス様と繋がることは、実は律法の要求を全部満たすことになります。


(8章4節)

それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです


イエス様とくっついていると、喜びと安心感の中で僕たちは内側から作り変えられ、気がついたら神様を愛したい、隣人を愛したい、そのように律法を守る人に変わって行きます。これを「聖化」と言います。イエス様の御霊は喜びのないルールとは全然違います。


(6)

しかし今は、私たちは自分を縛っていた律法に死んだので、律法から解かれました。その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです


御霊による喜びと安心感を知らない人は律法主義になりやすい傾向があるようです。見えるルールがある方が安心するようです何かができたら良いクリスチャン、ちゃんと聖書を読んでお祈りできたら良いクリスチャン、神様の教えを守り、神様と隣人を愛することができたら私は良いクリスチャン、そのように思いうまくいくと高ぶり、できないと落ち込んだり、また、できない人をさばいたりを繰り返します。落ち込む人も律法主義な人が多いようですこうでなければならない、という律法が強い人ほど、そうなれない自分にがっかりします。また、自慢する人も律法主義な人が多いようです自分がいかに従ってるか、献身しているかを自慢します。そこにはイエス様との平和がありません。

御霊の平安がないとますます見える基準を欲しがるのが僕たちの傾向のようです


🔺質問です

あなたは律法を守ることによって安心しようとか、自分や他人を評価しようとする傾向があるでしょうか。


※最近、なんだか喜びと感謝が減っているな、って感じていました。先週は毎日、ローマ人への手紙でした。毎日読んでいると、繰り返して行いによらず信仰によって義とされる、と言われます。僕自身がいつの間にか、感謝と喜びではなく毎日、やらなければならないことをする、律法主義になっていることに気がつきました。人にはあまり要求してないつもりですが、自分にはすごく要求していて、毎日全員のことをとりなしの祈りをしなければならない、朝、毎日一時間は賛美しなければならない、とか、与えられている音楽の賜物は完全に使わなければならないとか、加えて最近は筋トレのメニューをしなければならない、それをやってると、朝起きてから寝るまでほとんど隙間なく何かしてます。続けているうちに、いつの間にか感謝でも喜びでもなく、それらをやるというか、こなすことが大事になってしまっていたな、と感じました。まさに、行いによる義を求めていたと、思いました。知らず知らずに律法主義的になっていました。行いで自分を義としようと、良い牧師になろうとして自分を苦しめていたと思いました。


神様は優しくて、ちゃんとそのずれを教えてくださいます。みことばによって、ローマ人の手紙を順番に読んで行くと、行いによらず、イエス様を信じることで義とされていることに改めて教えられました。しかも、みことばだけでなく、力が出ない、最近燃え尽きた感じがして、精神的にも気力が出ない、なんか変だ、と思ってました。自分が健康でなくなりつつある、ということも神様からのお知らせです。このタイミングで、もう一度神様は僕にも皆さんにも教えてくださっています。


僕の場合は極端かもしれないけど、みなさんも気がつかないうちに「こうでなければならない」という基準を作って自分を苦しめているかもしれません。聖書は「自分を縛っていた律法に死んだので、律法から解かれました。」と言います。


(3章28節)

人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは考えているからです


イエス様の御霊を受けたところには自由があります。行いとは関係なく、義とされています。こうしなければ、ああしなければ、という私はキリストと一緒に死んだと聖書は言います。だのに、いまだに私たちを苦しめている行いによる義を求めているかもしれません。私たちは律法に死にました。


●罪は神様の聖なる律法を使って人間を苦しめます。


神様を愛しなさい、隣人を愛しなさい、という旧約聖書に書かれた律法は神様からの聖なる良い教えです律法が人を苦しめるのなら、それは悪いものですか?と言う疑問が起こります。答えは絶対にそれはありません。


(7)

それでは、どのように言うべきでしょうか。律法は罪なのでしょうか。決してそんなことはありません。


律法は良いものです。悪いのは罪です。罪とは、神様との関係出なく、自分の力で生きようとすることです罪はその良い教えである律法を利用して僕らを苦しめます。旧約聖書の律法は良いものです。7節の後半によると、律法は私たちの罪をあぶり出します。


(7節後半)

むしろ、律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。実際、律法が隣人のものを「欲してはならない」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。


欲しがってはならないことも、盗んではならないこと、殺してはならないこと、姦淫してはならないこと、全て聖なる良い教えです。祈ることも、賛美することも、奉仕も、献金も、良い教えです。でも、罪は神様の御言葉である律法を使って人間を苦しめます。「ほらまた守れない」「お前には無理だ」と私たちを告発しいじめ続けます。


罪は律法があると喜びます。ちょうど、ルールが増えると違反が増えるように、ルールが増えると取り締まりも厳しくなるように、罪は律法があると、それを利用して人を苦しめます。

人間がそれを守れないから、告発しやすくなるからです罪は聖書の律法を使って私たちを苦しめます。


(8-10節)

しかし、罪は戒めによって機会をとらえ、私のうちにあらゆる欲望を引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです

私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たとき、罪は生き、私は死にました。



罪は旧約聖書の良い教えを細かく利用して、人間の欲望を引き起こし、違反するように誘惑し、違反したとたんに告発し、生かすのではなく殺そうとします。お前はダメなんだ、死刑だ、呪われている、と宣言します。


(10-11節)

それで、いのちに導くはずの戒めが、死に導くものであると分かりました。罪は戒めによって機会をとらえ、私を欺き、戒めによって私を殺したのです


律法は命に導くはずだったのに、罪と悪魔にとって格好の利用材料となって、人を殺すものとなってしまいました。律法は悪用されて、人を潰します。


🔺質問その2

律法は聖なる神様の教えなのに、なぜ律法によって自分や他人を傷つけることがあるのでしょうか。


律法は良いものです。悪いものは罪です


(12から13節)

ですから、律法は聖なるものです。また戒めも聖なるものであり、正しく、また良いものです

それでは、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、罪がそれをもたらしたのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされました。罪は戒めによって、限りなく罪深いものとなりました。


聖書の言葉を悪用して人間を縛り苦しめ、だまし、神様との関係を壊そうとするのが罪の性質です

みことばは、イエス様との生きた交わりです律法は文字や単なるルールではなく、生きている言葉であり、神様からの命です。それを知らないと、人を責め、自分を責めるルールのように利用されてしまいます。これをすれば神様に認められる、と思ってしまう人はかわいそうですその人は守れない時には自分を責め、神様にも責められていると感じます。それで、こんな自分は愛されていない、資格がない、ダメクリスチャンだと言い始めます。喜んで奉仕している人を見るとねたんだり憎んだりします。愛し合っている人を見るとそこから逃げ出したくなります。


(第一コリント15章16節)

罪の力は律法です


罪と悪魔は神様の聖なる律法を使って人を苦しめます。だから罪の力は律法ですと書かれています。律法は良いものですしかし、それを悪用するのは罪です罪は聖書を使って私たちを苦しめます。


騙されてはいけません。私たちは律法に対して死にました。私たちは今キリストとの関係で生きています。私たちはキリストと結婚しました。キリストの1部となりました。キリストの御霊が私たちの中に生きておられます。そこには安心感と喜びがあります。聖書の学びをすることが重荷となるのか、自由と喜びになるのかの違いは何でしょうか。面倒なものか、喜びか、それは何が違うのでしょうか。

大好きな人、気楽な人、その人といると安心する人と出かけるなら、みなさんは忙しくてもスケジュールを空けます。大好きな人と過ごす時間は負担にならないからです

同じように、ディボーションが負担になるか、喜びになるか、教会の奉仕が、礼拝が負担になるか喜びになるか、それはイエス様との愛の関係の中にいるのか、それとも律法的な、いやいやながら、強いられてやってることなのかの違いです


人を愛し、神様を愛するための献金について聖書は言います。


(2コリント9:7)

ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。


もう罪に騙されてはいけません。悪魔に騙されてはいけません。律法を守ることで自分を正しいとする僕らは死にました。そして、僕たちはイエス様とつながりました。そこには喜びがあります。平安があります。


(ガラテヤ 5:22-23)

御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。


(6)

しかし今は、私たちは自分を縛っていた律法に死んだので、律法から解かれました。その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです


僕たちはイエス様に合体して変えられ続けています。神を愛し隣人を愛しなさいと言う律法はイエス様とつながることで実現します。文字の学びではなくイエス様との霊的な交わりです僕たちは今日も自由にさせられています。今日もキリストの御姿に変えられ続けています。


自分に聞いてみてください。喜びがあるか、平安があるか、愛があるか、もしも神様のみことばに聞き従う生活が負担になり重荷となっているなら、どこからズレてしまったのか、今日もう一度考えてみましょう。私たちは、イエス様と一緒に死にました。そして、今生きているのは、イエス様の命です。イエス様と結婚し、イエス様と合体し、キリストの命が私たちの中に生きています。

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