イエス様を信じた人はたとえ死んでも永遠の祝福が与えられるので大丈夫です!
ですが、聖書はもっと知って欲しいことがある、と言います。それはイスラエル人たちのことです。
神様にとってイスラエル人たちは今も宝であり愛する子どもたちです。
そして、僕らはイスラエル人から見ると異邦人(外人)です。神様が僕らに知らせたいと言われるのは、信じる順番です。
まずイスラエル人(イエス様を拒否)→次に異邦人→そしてまたイスラエル人です。
そのイスラエル人たちは今はイエス様に反抗しているけど、やがて救われる、と聖書は言います。
●取り消されないイスラエルへの愛
(25-26節前半)
兄弟たち。あなたがたが自分を知恵のある者と考えないようにするために、この奥義を知らずにいてほしくはありません。イスラエル人の一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時が来るまでであり、こうして、イスラエルはみな救われるのです。
「奥義」というのは、今まで秘密だったけど、今オープンになったことです。それを知って欲しい、と聖書は言います。
「イスラエル人の一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時が来るまで」です。(25節)異邦人の僕らがイエス様を信じるのは期間限定です。「異邦人が満ちる期間」というのがあって、その期間が終わったら次はイスラエル人がみんな救われると聖書は言います。
今から約2000年前にイスラエルから始まった福音のメッセージはヨーロッパ大陸に渡り、それからイギリス、アメリカへと広がって行きました。そして次にアジア諸国に来ました。福音は西周りで地球を一周です。今は一周してさらにもう一度「イスラエル」に福音を届けようとする人が沢山います。そしてイエス様はもう一度エルサレムに来ると書かれています。
(26-27節)
こうして、イスラエルはみな救われるのです。「救い出す者(イエス様)がシオン(エルサレム)から現れ、
ヤコブ(イスラエル)から不敬虔を除き去る。これこそ、彼らと結ぶわたしの契約、すなわち、わたしが彼らの罪を取り除く時である」と書いてあるとおりです。
イエス様は完全にイスラエルから罪を取り除くと約束されています。
その時がいつなのか、僕らにはわかりません。だけど、その日が来ることは確かです。その時にイスラエル人たちはみんな救われます。
イスラエル、と聞くと、戦争ばかりしている国、とかモラルがない国と言われます。実際、イスラエルの首都はテルアビブは世界で最もゲイに優しい街と言われていて、全然神様の教えと違う国です。それでも神様はイスラエルを愛しています。
(28-29)
彼らは、福音に関して言えば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びに関して言えば、父祖たちのゆえに、神に愛されている者です。神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。
神様はイスラエル人の先祖アブラハムにも、イサクにも、ヤコブにもあなたがを祝福する、子孫も祝福する、と約束してくださいました。神様の約束や選びは、人がどんなに堕落しても何千年たっても取り消されません。神様からの祝福と愛のプレゼントは、人の行いや堕落や高ぶりに関係なく取り消されません。
イスラエル人たちは神様に呼び出され、神様に愛され、祝福され救われます。これは彼らがどんなに落ちぶれても罪を犯しても変わることのない神様の約束です。
27節に「これこそ、彼らと結ぶわたしの契約」とあります。
26-27節は神様が預言者イザヤとエレミヤを通して宣言された約束です。契約とは、神様の側からの約束なので、人間の性格とか行いによって取り消されることはありません。
僕は自動車保険に入っています。これは僕の性格が良いとか悪いとか、関係ありません。それ以上に神様の契約は人の行いとか性格ではなく、神様の権威と責任によってちゃんと実現します。
(26-27節)
こうして、イスラエルはみな救われるのです。「救い出す者がシオンから現れ、ヤコブから不敬虔を除き去る。これこそ、彼らと結ぶわたしの契約、すなわち、わたしが彼らの罪を取り除く時である」と書いてあるとおりです。
イスラエルがどんなに悪くなっても神様は愛し続けています。これが知って欲しい奥義です。そして、神様のご性格です。だから僕らも安心して神様に信頼できます。神様の愛は僕らがいいか悪いか関係ないからです。
●全ては行いではなく神様のあわれみ
聖書は一貫して罪人こそが招かれると言います。自分からいい人になれない人、愛がない、とがっかりする人は幸いだとイエス様はおっしゃいます。心貧しい人は幸いです。その人こそ、祝福されます、とイエス様はおっしゃいます。天のみ国、神様の愛とあわれみの国はその人のものだからです。義に飢え乾く人は幸いです。その人こそ神様によって満たされます。全てが神様のあわれみです。
(30節)
あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けています。
僕らも不従順でした。神様に従うつもりなんてありませんでした。でも、イスラエル人が先に頑固に拒否したので、この福音が日本にまで届きました。これはあわれみです。
そして、同じように、イスラエル人たちは今は頑固に拒否しているけども、そんな頑固で従うつもりのない彼らが招かれ、あわれみを受けます。
(31-32節)
それと同じように、彼らも今は、あなたがたの受けたあわれみのゆえに不従順になっていますが、それは、彼ら自身も、今あわれみを受けるためです。神は、すべての人を不従順のうちに閉じ込めましたが、それはすべての人をあわれむためだったのです。
もしも、私は正しい、私は、よくやっている、私は神に従っている、という人はイエス様の福音が嫌いです。
罪とは、神様の福音から離れることです。
神様から離れると人の行いばかり注目します。自分がどれだけ上に行けるか、と思うし、周りの人の言葉や行いばかりに振り回されてつまづいたり、妬んだりします。
福音から離れると、いつも見回すのは人の言動、そして自分の言動なので、威張ったり落ち込んだりを繰り返します。それが罪人です。
自分の心にねたみ、比べ合い、批判、文句が出てきたら黄色信号、赤信号です。イスラエル人たちが救われる方法、赦される方法はイエス様の十字架の赦しを信じることだけ、です。そして、異邦人が信じて救われる方法も全く同じです。あの血だらけの十字架の前では、どっちが偉いか正しいか、なんていってられません。
(ローマ5:20)
罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。
罪が多い人は赦しも多いです。罪が多い人は赦されたことへの感謝も多いです。不従順な人は、それでも見捨てられなかった、あわれんでもらったという感謝が増えます。
●神様だけの主権と栄光
人間が神様のため何かをしたら救われる、ということはありません。
人の思いとか行いをはるかに超えているのが神様です。
(33-36節)
ああ、神の『知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばき(判断)はなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。「だれが主の心を知っているのですか。
だれが主の助言者になったのですか。だれがまず主に与え、
主から報いを受けるのですか。」すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。
学校で習ってきたのは、何か頑張ったら結果を出せる、頑張ったら愛されるとか、努力によって夢をつかめ、という世界です。でも、神様の愛は全然違います。全てが神様から発し、与えられたものです。
神様はなんの不足もない方です。人の助けがいらない方です。
(35-36節)
だれがまず主に与え、主から報いを受けるのですか。」すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。
命も力も知恵もお金も、全ては神様から与えられています。僕らが神様のために何かするのではなく、神様が僕らを選び愛し、そして、用いてくださり、一緒に行動したいと願ってくださっています。
何も不足していない神様が僕らと一緒に世界の歴史を作りたいと願っていてくださいます。神様は僕らの考えをはるかに超えています。主をたたえましょう。僕らが思うよりも、神様はずっとずっと大きい方です。
神様を賛美しましょう。ハレルヤ!
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