僕ら人間には気持ちがあります。…ですがその気持ちがいつも正しいとは限りません。
ダビデ王は息子アブシャロムが戦死したことを悲しみ叫び続けます。親としては当然です。…ですが息子が戦死した理由は神様に逆らってクーデターを起こしたことへの神様の裁きだったからです。なのでいつまでも嘆き続けることがダビデ王の正しい態度でもありませんでした。
(1-4節)
そうこうするうちに、ヨアブに、「今、王は泣いて、アブシャロムのために、喪に服しておられる。」という報告がされた。
それで、この日の勝利は、すべての民の嘆きとなった。この日、民が、王がその子のために悲しんでいる、ということを聞いたからである。
民はその日、まるで戦場から逃げて恥じている民がこっそり帰るように、町にこっそり帰って来た。
王は顔をおおい、大声で、「わが子アブシャロム。アブシャロムよ。わが子よ。わが子よ。」と叫んでいた。
ダビデ王は叫び続けるので、勝利した兵士たちも喜べなくなっていました。そんなダビデ王の態度は良くない、と将軍ヨアブは注意します。
(5-7節)
ヨアブは王の家に行き、王に言った。「あなたは、きょう、あなたのいのちと、あなたの息子、娘たちのいのち、それに、あなたの妻やそばめたちのいのちを救ったあなたの家来たち全部に、きょう、恥をかかせました。
あなたは、あなたを憎む者を愛し、あなたを愛する者を憎まれるからです。あなたは、きょう、隊長たちも家来たちも、あなたにとっては取るに足りないことを明らかにされました。今、私は知りました。もしアブシャロムが生き、われわれがみな、きょう死んだのなら、あなたの目にかなったのでしょう。
それで今、立って外に行き、あなたの家来たちに、ねんごろに語ってください。私は主によって誓います。あなたが外においでにならなければ、今夜、だれひとりあなたのそばに、とどまらないでしょう。そうなれば、そのわざわいは、あなたの幼いころから今に至るまでにあなたに降りかかった、どんなわざわいよりもひどいでしょう。」
ダビデは泣き叫ぶのをやめて王としての立場に戻りました。
(8節)
それで、王は立って、門のところにすわった。人々がすべての民に、「見よ。王は門のところにすわっておられる。」と知らせたので、すべての民は、王の前にやって来た。
ダビデ王は今はクーデターによって分裂した国をもう一度まとめることを決意し、ただ泣き叫ぶのをやめて神様に与えられた王様としての役目を果たします。ダビデは裏切って戸惑っている敵側に「私の兄弟、身内だ」と声をかけ、敵側だった将軍アマサを自分の将軍にします。
(11-14節)
ダビデ王は祭司ツァドクとエブヤタルに人をやって言わせた。「ユダの長老たちにこう言って告げなさい。(…中略…)
あなたがたは、私の兄弟、私の骨肉だ。それなのに、なぜ王を連れ戻すのをためらっているのか。』
またアマサ(敵側だった将軍)にも言わなければならない。『あなたは、私の骨肉ではないか。もしあなたが、ヨアブ(今までの将軍)に代わってこれからいつまでも、私の将軍にならないなら、神がこの私を幾重にも罰せられるように。』」こうしてダビデは、すべてのユダの人々を、あたかもひとりの人の心のように自分になびかせた。
ダビデは息子を失った自分の気持ちを一旦手放して、政治家として王としての役目を果たしました。
それによってイスラエルは再びまとまって行きます。
僕らも神様に与えられた役目があります。そして神様からの役目を果たすために自分の気持ちや考えを手放すことが必要な場面もあります。
その時には必ず神様の助けがあるので大丈夫です。
イエス様も十字架の処刑を受ける前の夜には「この苦しみを取り除けてください」と祈りました。…でも最後には「わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままをなさってください」と祈り、僕らの罪の呪いを身代わりに受ける十字架の道を選んでくださいました。
人間の気持ちはアテにならない面もあります。
クーデターの時には多くの民衆は反乱軍であるアブシャロム側につきました。ところがアブシャロムが戦死したとたん、急にダビデ王側に鞍替えして、人々は「(ダビデ)王は敵の手から、われわれを救い出してくださった。王はわれわれをペリシテ人の手から助け出してくださった。ところが今、王はアブシャロムのために国外に逃げておられる。」と言い始めます。人の気持ちは単純だし、損得や気まぐれで簡単に変わるようです。
確かなことは、人の言葉や多数決ではなく、神様の言葉です。
僕らがいつも状況に振り回される気持ちではなく、確かな神様の言葉に聞いて、落ち着いた、平安と希望に満ちた気持ちでありますように。
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