聖書によると神様の怒りと呪いは確かにあります。同時に、神様の愛とあわれみも尽きることがありません。罪人の上に注がれるのは神様の怒りと呪い、同時に愛とあわれみと赦しです。この両者はイエス様の十字架の呪いに現れています。イエス様の呪いは僕らの身代わりです。
ひどい罪を犯しつづけたダビデの息子アブシャロムもまた神様の怒りと裁きを受け、同時に父に愛され、あわれまれた人です。
彼の罪は大きくまとめると以下の3つです。
①兄弟アムノンを恨み殺しました。(13章)
②父であるダビデ王を批判し、人々の心が自分になびくようにしました。聖書は「イスラエルの人々の心を盗んだ」と書いています。(15章)
③謀反を起こし、自分が王様だと宣言し、父親の側女と公然と寝ます。これは王である父親を完全に侮辱する行為です。(15-16章)
聖書によると、このような人は呪われます。これは聖書が繰り返し教え警告していることです。アブシャロムは自分から神様に呪われるようなことをやり続け、ついに神様に裁かれ、殺されます。具体的にはダビデ軍との戦いで殺されます。神様は密林を用いてアブシャロムと兵士たちを滅ぼされたことが書かれています。
(6-9節)
こうして、民はイスラエルを迎え撃つために戦場へ出て行った。戦いはエフライムの森で行なわれた.
イスラエルの民はそこでダビデの家来たちに打ち負かされ、その日、その場所で多くの打たれた者が出、二万人が倒れた。戦いはこの地一帯に散り広がり、この日、剣で倒された者よりも、密林で行き倒れになった者のほうが多かった。アブシャロムはダビデの家来たちに出会った。アブシャロムは騾馬に乗っていたが、騾馬が大きな樫の木の茂った枝の下を通ったとき、アブシャロムの頭が樫の木に引っ掛かり、彼は宙づりになった。彼が乗っていた騾馬はそのまま行った。
(14-17節)
ヨアブ(ダビデ軍の将軍)は、「こうしておまえとぐずぐずしてはおられない。」と言って、手に三本の槍を取り、まだ樫の木の真中に引っ掛かったまま生きていたアブシャロムの心臓を突き通した。ヨアブの道具持ちの十人の若者たちも、アブシャロムを取り巻いて彼を打ち殺した。ヨアブが角笛を吹き鳴らすと、民はイスラエルを追うのをやめて帰って来た。ヨアブが民を引き止めたからである。人々はアブシャロムを取り降ろし、森の中の深い穴に投げ込み、その上に非常に大きな石くれの山を積み上げた。
神様の怒りと裁きを受けるアブシャロムですが、それでも戦いの直前に父ダビデはアブシャロムを殺さないようにと隊長たちに願います。「私に免じて殺さないでくれ」とです。戦況を聞くときにはいつも真っ先に「若者アブシャロムは無事か」と聞きます。(29節、32節)神様の正しい裁きと父の愛とあわれみが混在しています。
(5節)
王はヨアブ、アビシャイ、イタイ(トップ3の隊長)に命じて言った。「私に免じて、若者アブシャロムをゆるやかに扱ってくれ。」民はみな、王が隊長たち全部にアブシャロムのことについて命じているのを聞いていた。
そして、アブシャロムが死んだことを聞くと、ダビデは嘆き続け「私が代わりに死ねばよかった」と言い続けます。
(31-33節)
するとクシュ人がはいって来て言った。「王さまにお知らせいたします。主は、きょう、あなたに立ち向かうすべての者の手から、あなたを救って、あなたのために正しいさばきをされました。」王はクシュ人に言った。「若者アブシャロムは無事か。」クシュ人は答えた。「王さまの敵、あなたに立ち向かって害を加えようとする者はすべて、あの若者のようになりますように。」すると王は身震いして、門の屋上に上り、そこで泣いた。彼は泣きながら、こう言い続けた。「わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ。」
神様の怒りと呪い、裁きの正しさは今も変わらず罪人である僕らの上に注がれます。同時に、神様に愛とあわれみは今日も変わらず僕らの上に注がれています。どんなに背く人に対しても、イエス様は今日も「わたしに免じて子どもたちを赦してください」と祈っていてくださいます。「私がおまえに代わって死ねばよかった」というダビデの姿はキリストの愛の表れです。
神様の怒りと呪いはあります。そして同時に愛とあわれみがあります。それは十字架のイエス様の無残な姿に現されています。
神様が与えてくださった権威を侮辱し、父母を呪う人は殺されます。でも、その呪いを受けてくださったのはイエス様です。
(エゼキエル 18:23)
わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。―神である主の御告げ。―彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。
僕らの希望はイエス様による赦しです。イエス様が身代わりに受けてくださった呪いこそ、僕らへの神様の愛と赦しです。
僕らは威張れません。僕らの上にあるのはただ、あわれみです。
(ローマ 5:6-9)
私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
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