僕らが悪い出来事に直面する時に不安や悲しみや恐れで一杯になるか、それでも安心と希望があるか、その違いはイエス様に対する信仰(信頼)の違いです。安心や希望がある人は最悪なことさえ良いことに変えるイエス様を信じている人です。この信仰と希望はどうしたら与えられるか?ですが、聖書は言います。「信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」(ローマ10.17)イエスキリストのことを知ると、信仰は与えられ、平安と希望が与えられます。イエス様には絶望も恐れも死もないことがわかってきます。イエス様は僕らに癒し、回復、愛、いのちを与えたいと願っておられます。それを受け取る方法はただ一つ「信仰」つまり信じること、信頼することです。
12年間も病気が治らなかった女性はイエス様を信じて癒されました。(マルコ5.28)イエス様は彼女に言われました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」(5.34)病気は治るかもしれないけど、さすがに死んだらおしまいだろう、と人は思います。それでもイエス様は「恐れないで、ただ信じていなさい。」(36)と言われます。
(35-36)
イエスがまだ話しておられるとき、会堂司の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。これ以上、先生を煩わすことがあるでしょうか。」イエスはその話をそばで聞き、会堂司に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」
人々は女の子が死んでしまったことで泣いたりわめいたりしていました。そんな彼らにイエス様は言われます。
(38-39)
彼らは会堂司の家に着いた。イエスは、人々が取り乱して、大声で泣いたりわめいたりしているのを見て、
中に入って、彼らにこう言われた。「どうして取り乱したり、泣いたりしているのですか。その子は死んだのではありません。眠っているのです。」
イエス様にとっては死は絶望ではありません。イエス様が言われると死人は復活します。
(40-42)
人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子どもの父と母と、ご自分の供の者たちだけを連れて、その子のいるところに入って行かれた。
そして、子どもの手を取って言われた。「タリタ、クム。」訳すと、「少女よ、あなたに言う。起きなさい」という意味である。
すると、少女はすぐに起き上がり、歩き始めた。彼女は十二歳であった。それを見るや、人々は口もきけないほどに驚いた。
イエス様が2000年前に地上にこられたのは、神の国を知らせるためです。イエス様はもう一度この地上に来られ、この世界を支配される王そうです。 イエス様はその予告編のように悪霊を追い出し、病を癒し、死人を復活させました。それはやがて私たちの世界に実現する神の国の姿です。完璧な神の国は来ます。そして信じる人たちにはすでに来ています。
僕らの周りにも死はあります。それでも望みがあります。
(1テサ4:13-14)
眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
癒しや復活を信じることは自己暗示とか洗脳ではありません。真実を受けとることです。信じる人は悪い出来事の中にも未来の希望があり、感謝があり、喜びがあります。そして、そのように前向きに行動します。もちろん恐れも不安も付きまといます。イエス様は今日も僕らに言ってくださいます。「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」と。今日も信頼しましょう。「死」も私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ8.38-39)ハレルヤ!
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