僕らはどうやって収入を得ようか、何を着ようか何を食べようかと心配しますが、イエス様は心配することを禁止しています。神様が養ってくださるからです。もちろんずっとゴロゴロしてておっけーではありません。「働かざるもの食うべからず」というのは聖書の言葉です。(2テサロニケ3.10)
働くことは神様と隣人を愛し仕え、与えることです。収入は神様からのものです。お客さんからに見えますが、神様からのものです。労働は愛するためのものであって、収入のためにイヤイヤすることではありません。心配だから働くのでもありません。受けるより与えることが神様が与えてくださった労働です。お客さんに与え、仕事仲間に与え、家族に与え、神様と隣人への愛を表すのが労働です。愛も働く力も全て神様から与えられています。受けるのではなく与えることは天で喜ばれ、天に積む宝のようです。
(31-33)
むしろ、あなたがたは御国を求めなさい。そうすれば、これらのものはそれに加えて与えられます。
小さな群れよ、恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです。
自分の財産を売って施しをしなさい。自分のために、天に、すり切れない財布を作り、尽きることのない宝を積みなさい。天では盗人が近寄ることも、虫が食い荒らすこともありません。
イエス様ご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである。』とおっしゃいました。(使徒20.35)しかも与える人は与えられます。神様は喜んでその人に必要なものを与えてくださいます。神様が養い与えてくださることを「御国」(王国)と言います。神様は僕らに喜んで必要なものを与えてくださる王様です。だから心配をやめなさい、とイエス様はおっしゃいます。
(22-28)
それからイエスは弟子たちに言われた。「ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようかと、いのちのことで心配したり、何を着ようかと、からだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものだからです。
烏のことをよく考えなさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。それでも、神は養っていてくださいます。あなたがたには、その鳥よりも、どんなに大きな価値があることでしょう。
あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。
こんな小さなことさえできないのなら、なぜほかのことまで心配するのですか。
草花がどのようにして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装ってはいませんでした。
今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、どんなに良くしてくださることでしょう。信仰の薄い人たちよ。
何を食べたらよいか、何を飲んだらよいかと、心配するのをやめ、気をもむのをやめなさい。
心配する人は神様を信じない人です。イエス様は心配する人のことを「信仰の薄い人たち」と言われます。(28)心配は神様への疑いです。「どうせ与えられない」「どうせ養ってくれない」という不信です。これが「信仰の薄い人たち」です。信じて与える人は与えられます。しかも、神様は「喜んで」(32)僕らに御国(神様の王国、ご支配、養い、守り)を与えてくださいます。心配しないで与えましょう。捧げましょう。大丈夫です。神様が裏切ることはありえません!
(2コリント9.10-11 リビングバイブル )
農夫にまく種を与え、そのあと収穫物を与えてくださる神様は、あなたがたにもまく種を備え、それをふやして、あなたがたに義の収穫の実をもっと与えることができるのです。そうです。神様から十分いただいたあなたがたは、人にもたくさん贈ることができるのです。そして、私たちがそれを必要としている人々に届ける時、そこには感謝が満ちあふれ、神への賛美がわき上がるのです。
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