2023年1月11日水曜日

マルコ12.38-44

 どんなことでも自慢になります。仕事やお金、能力、見かけなど僕らは何でも自分の栄光にしたがります。

なんと、神様に従うことや聖書を学ぶことでさえ、僕ら人間は自慢したがり、自分の栄光にしたがります。イエス様の時代、聖書を専門的にストイック学んでいる律法学者たちは尊敬されました。…ですが、それが彼らの権威になり、それが彼らの自慢になりました。イエス様はそれに気をつけるように言われます。


(マルコ12.38-40)

イエスはその教えの中でこう言われた。「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣(権威を表します)をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが大好きで、また会堂の上席や、宴会の上座が大好きです。また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」


献金さえも自慢になります。聖書を学ぶことも、祈ることも、献金することも、自慢のためなら「こういう人たちは人一倍きびしい罰を受ける」とおっしゃいます。自慢なら意味がありません。神様は心を見ておられます。見かけでなく、献金の額ではなく、真実な愛と犠牲を神様は喜んでくださいます。たとえ小さな金額でもそれが本当に心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神様を愛することなら、神様は喜んでくださいます。


(マルコ12.41-44)

それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」


僕らの全てが見せかけでなく、本当に神様に喜ばれ、神様を愛するものでありますに。全ての栄光と力は主のものです僕らのお金も全部神様のものです。神様が僕らの心を調べ、不純なものがあるかないか教えてくださいますように。

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