僕ら人間は弱いのでいつも何かで満たされようとします。これがあれば幸せになれる、とかこうすれば満たされるというものをいつも求めているのが人間です。そして僕らが求めるべき、そして僕らを満たし安息させるのは神様です。人もモノもレジャーも仕事も良いものですが、それらはすべて神様が与えてくださったプレゼントです。それら求め、それでいて神様を忘れて離れる人は愚かだと聖書は言います。そのような人は「のろわれよ」とさえ言われています。(5節)
(5-6)
主はこう言われる。「人間に信頼する者はのろわれよ。肉なる者を自分の腕とし、心が主から離れている者は。
そのような者は荒れ地の灌木。幸せが訪れても出会うことはなく、焼けついた荒野、住む者のいない塩地に住む。
どんなに頼りになる良い人に見えても、神様から見ると心の奥は陰険であり、曲がっています。それを隠しつつ生きているのが人間です。人間をまるで神様のように信頼し聞き従う人は愚かです。
(9-10)
人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。
わたし、主が心を探り、心の奥を試し、それぞれその生き方により、行いの実にしたがって報いる。」
神様だけが僕らを本当に満たす命の水の源です。その神様から離れることは命から離れるのと同じです。イエス様は「わたしはいのちです」とおっしゃっています。(ヨハネ11.25、14.6)そしてイエス様を信じる人はいのちの水が与えられ続けます。(ヨハネ4.14)この方から離れるのはいのちを失うことです。
(13)
「イスラエルの望みである主よ。あなたを捨てる者は、みな恥を見ます。」「わたしから離れ去る者は、地にその名が記される。いのちの水の泉である主を捨てたからだ。」
神様を求め信頼する人は本物の、しかも永遠の祝福が与えられます。この神様だけが僕らを癒し、救ってくださる唯一の方です。人間によってではないし、モノによるのでも行いによるのでもありません。
(7-8)
主に信頼する者に祝福があるように。その人は主を頼みとする。
その人は、水のほとりに植えられた木。流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、実を結ぶことをやめない。
(14)
「私を癒やしてください、主よ。そうすれば、私は癒やされます。私をお救いください。そうすれば、私は救われます。あなたこそ、私の賛美だからです。
僕らが何によって癒されようとしてるのか、救われようとしているのか、それは時間の使い方でわかります。神様は週に1日を「止まる日」「神様の日」にするように言われました。それは安息日と言われます。休まず仕事をして収入を増やして安心しようとか、何かすることで満たされようとするのではなく、止まって神様に感謝する日をつくりなさい、という命令です。この命令はいのちのすべてが神様から与えられていることを確認するためのものです。
ところが、神様を忘れると人間の行いや商売や努力やそのようなもので生きていると誤解しそれらで満たされようとします。
エレミヤの時代の人たちも、安息日など構わず仕事をしていたようです。商売こそが自分たちを満たし幸せにすると思っていたようです。
(21-22)
主はこう言われる。あなたがた自身、気をつけて、安息日に荷物を運ぶな。また、それをエルサレムの門の内に持ち込むな。
また、安息日に荷物を家から出すな。いかなる仕事もするな。安息日を聖なるものとせよ。わたしがあなたがたの先祖に命じたとおりだ。
仕事によってではなく、それらを与えてくださる神様によって僕らは満たされます。人は「休むと安心できない」と言うかもしれません。が、神様こそがすべての源であることを確認するために、神様のための時間を取り分けることが必要だし、何より価値のある、しかも正しく、祝福されることです。
(24-25)
安息日にこの都の門の内に荷物を持ち込まず、安息日を聖なるものとし、この日にいかなる仕事もしないなら、ダビデの王座に就く王たちや、車や馬に乗る首長たち、すなわち王たちとその首長たち、ユダの人、エルサレムの住民は、この都の門の内に入り、この都はとこしえに人の住む所となる。
僕らはいつも何かで満たされようとしています。僕らが求めるべき、そして僕らを満たし安息させるのは神様です。神様を第一に求めましょう。すべての良いものはこの方からのプレゼントです。ハレルヤ!
(マタイ 6:31-33)
何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。(…中略…)神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
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