人間はみんな神様のようになりたいという傲慢さがあるので、自分の意見や願いと違うことを言われると腹が立ちます。相手が誰であっても自分の思い通りに動いて欲しいというのが僕ら人間です。罪を指摘し、神様の怒りと裁きを伝えるエレミヤは人々にとって不愉快でした。神様の言葉をそのまま伝えたエレミヤは拘束されてひどい目にあいます。
(1-2)
さて、主の宮のつかさ、また監督者である、イメルの子、祭司パシュフルは、エレミヤがこれらのことばを預言するのを聞いた。
パシュフルは、預言者エレミヤを打ち、彼を主の宮にある、上のベニヤミンの門にある足かせにつないだ。
パシュフルは、当時のエルサレムの神殿の監督者です。権力者だった彼はすごく怒ってエレミヤを逮捕して懲らしめました。彼はエレミヤを「預言者エレミヤを打ち、」つまり、拘束してムチ打ちの刑をしたと言われています。人々の前で、です。そして、「上のベニヤミンの門にある足かせにつないだ。」とあります。ベニヤミンの門とは、人々がたくさん出入りするところです。そこで彼を足かせにつなぎました。傷だらけになったエレミヤを丸一日人通りの多い門で晒し者にしました。7節はエレミヤの嘆きです。
(7-8)
「主よ。あなたが私を惑わしたので、私はあなたに惑わされました。あなたは私をつかみ、思いのままにされました。私は一日中笑いものとなり、皆が私を嘲ります。私は、語るたびに大声を出して『暴虐だ。暴行だ』と叫ばなければなりません。主のことばが、一日中、私への嘲りのもととなり、笑いぐさとなるのです。
エレミヤはこんな目に会いたくない、と本音を言ってます。神様がまるで自分を誘惑して、なりたくないのに預言者にされて苦しめられている、と嘆きます。もう預言者なんてやめたい、というのがエレミヤの本音です。それでも、神様の言葉が自分の中にあって、それは火のように燃えていて自分ではやめれない、と言っています。
(9)
私が、『主のことばは宣べ伝えない。もう御名によっては語らない』と思っても、主のことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私は内にしまっておくのに耐えられません。もうできません。
エレミヤは苦しみの中で「生まれて来なければよかった」とさえ言って嘆きます。この苦しみが死ぬほど嫌だ、ということです。
(14-18)
「私の生まれた日は、のろわれよ。母が私を産んだその日は、祝福されるな。
のろわれよ。私の父に、『男の子が生まれた』と知らせて、大いに喜ばせた人は。
その人は、主があわれみもなく打ち倒す町々のようになれ。朝には彼に悲鳴を聞かせ、真昼には、ときの声を聞かせよ。
彼は、私が胎内にいるときに私を殺さず、母を私の墓とせず、その胎を、永久に身ごもったままにしなかったからだ。
なぜ、私は労苦と悲しみにあうために胎を出たのか。私の一生は恥のうちに終わるのか。」
死ぬほどやりたくないのに、それでも、神様のみことばは生きていて、力があり、エレミヤを通して神様は語ります。圧倒的な力をもつ神様の言葉と、それを預かるエレミヤの弱さは対照的です。エレミヤは弱さと悲しみを抱えながら、語り続けます。これは完全に神様のみことばの力です。彼の力ではありません。
(3)
翌日になって、パシュフルがエレミヤを足かせから解いたとき、エレミヤは彼に言った。「主はあなたの名をパシュフルではなく、『恐怖が取り囲んでいる』と呼ばれる。
エレミヤは傷だらけになり、一睡もできず、拘束され衰弱しきって次の日解放されました。こんなに弱くても神様の裁きの言葉を語ります。パシュフルに対して、神様はあなたを恐怖が取り囲む、と預言します。パシュフルだけでなく、パシュフルが愛する人たちも恐怖に突き落とされ、パシュフルは愛する人が目の前で殺される恐ろしい裁きの預言をします。これはエレミヤが言っているんだけど、主のことばです。
(4-5)
まことに主はこう言われる。見よ。わたしはあなたを、あなた自身とあなたの愛するすべての者にとって恐怖とする。彼らは、あなたが見ている前で、敵の剣に倒れる。また、わたしはユダの人すべてをバビロンの王の手に渡す。彼は彼らをバビロンへ引いて行き、剣で打ち殺す。
また、わたしはこの都のすべての富と、すべての労苦の実と、すべての宝を渡し、ユダの王たちの財宝を敵の手に渡す。彼らはそれをかすめ奪い、略奪してバビロンへ運ぶ。
エレミヤは弱く傷ついていて力はありません。それでも、神様はエレミヤを用いてくださいます。主だけが完全であり、力があり、主だけが正しく復讐する唯一の方です。エレミヤではありません。
(11-12)
しかし、主は私とともにいて、荒々しい勇士のようです。ですから、私を迫害する者たちはつまずき、勝つことができません。彼らは成功しないので、大いに恥をかき、忘れられることのない永久の恥となります。
エレミヤは賛美します。賛美はがんばって歌うことではなく、ただ神様の言葉は真実で、神様だけが勝利の方であることの宣言です。
(13)
主に向かって歌い、主をほめたたえよ。主が貧しい者のいのちを、悪を行う者どもの手から救い出されたからだ。
体も傷つき、心も傷つけられて死にたいほどのエレミヤが用いられています。これは僕らにも適用できます。クリスチャンはただ神様だけにより頼む人です。「自分が頑張って生きている」という罪人の自分はキリストと一緒に死に、今はキリストが生きていると言います。それがクリスチャンです。
(ガラテヤ2:20)
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
パウロも迫害や苦しみに何度も会いました。でも、パウロは弱いときこそ神様の力の現れる時と言っています。
(2コリント12:9-10)
しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
僕らが弱さを感じ、全部やめたくなるときこそ、自分の力で生きているのでないことがよくわか理、神様の力だけに依り頼む時です。弱くなったら自分の力はないことを感謝しましょう。私たち弱いときにこそ、私たちは神様の力が100パーセントだと知る時です。
チアニッポンの稲葉さんが講演会で言っていました。
I can do nothing,
But Jesus can do everything!
私は何もできません。でも、イエス様が全てをなしてくださいます。ハレルヤ!
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