「困った時の神頼み」の通り、普段は神様をバカにしている人が困った時だけ神様を「利用」しようとすることがあります。
ゼデキヤという王様がまさにそうでした。彼は神様にも預言者エレミヤにも逆らい続けた王様です。神様は彼をあわれんで何度も使者を使わして悔い改めるように伝えます。それでも彼は預言者たちを笑いものにし続けます。
(2歴代誌36:15-16)
彼らの父祖の神、主は、彼らのもとに、使者たちを遣わし、早くからしきりに使いを遣わされた。それは、ご自分の民と、ご自分の御住まいをあわれまれたからである。ところが、彼らは神の使者たちを笑いものにし、そのみことばを侮り、その預言者たちをばかにしたので、ついに、主の激しい憤りが、その民に対して積み重ねられ、もはや、いやされることがないまでになった。
彼は激しい神様の怒りに会ってバビロンに攻撃されます。いよいよ自分たちの危機が迫っていることを知ったゼデキヤ王は神様が助けてくれるかもしれない、と期待して預言者エレミヤに「主に尋ねてください」とお願いします。「困った時の神頼み」です。
(1-2)
主からエレミヤにあったことば。ゼデキヤ王が、マルキヤの子パシュフルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤをエレミヤのもとに遣わして、
「どうか、私たちのために主に尋ねてください。バビロンの王ネブカドネツァルが私たちを攻めています。主がかつて、あらゆる奇しいみわざを行われたように、私たちにも行い、彼を私たちのところから引き揚げさせてくださるかもしれませんから」と言ったときのことである。
昔、ヒゼキヤという王様が攻撃された時にへりくだって祈り続けたことがありました。神様の前にひれ伏して祈り、預言者イザヤにも一緒に祈ってくれるようにお願いしました。神様は祈りに答えてくださり、たった一晩で敵を全滅させてくださったことがあります。ゼデキヤは「あの時みたいにしてくれるかもしれない」と期待しています。ですが、彼はへりくだりもせず、自分で祈りもせず、神様に従うつもりはないようです。神様の答えは反対に「あなたを滅ぼす」というものでした。
(5-7)
わたし自身が、伸ばされた手と力強い腕をもって、怒り、憤り、大いなる激怒をもって、あなたがたと戦う。
この都に住むものは、人も家畜もわたしは打つ。彼らは激しい疫病で死ぬ。
その後で──主のことば──わたしはユダの王ゼデキヤとその家来、また、その民と、この都で疫病や剣や飢饉から逃れて生き残った者たちを、バビロンの王ネブカドネツァルの手、敵の手、いのちを狙う者たちの手に渡す。彼は彼らを剣の刃で討ち、彼らを惜しまず、容赦せず、あわれみをかけない。』」
(10)
なぜなら、わたしがこの都に顔を向けるのは、幸いのためではなく、わざわいのためだからだ──主のことば──。この都は、バビロンの王の手に渡され、彼はこれを火で焼く。』」
エレミヤは神様の裁きのことばをそのまま伝えました。するとゼデキヤ王は怒ってエレミヤを監禁してしまいます。
(エレミヤ 32:3-4)
彼が監禁されたのは、(…中略…)エレミヤが次のように答えたからである。「主はこう仰せられる。『見よ。わたしはこの町をバビロンの王の手に渡す。それで、彼はこれを攻め取る。ユダの王ゼデキヤは、カルデヤ人の手からのがれることはできない。
ゼデキヤ王は悔い改めたのでなく、神様を「利用」しようとしただけです。みことばが気に入らないと預言者をいじめます。僕らが口先だけ神様、と言って使おうとしてるだけなのか、それともひれ伏して心から従おうとしているのか全部を見て知っておられます。口だけで主よ主よ、と言うのはむなしく、しかも、主に嫌われることです。神様を信じることは従うことです。
(マルコ7:6-8)
『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。
(12-14)
ダビデの家よ、主はこう言われる。朝ごとに、公正にさばきを行い、かすめられている者を、虐げる者の手から救い出せ。そうでないと、あなたがたの悪行のために、わたしの憤りが火のように燃えて焼き尽くし、消す者はいなくなる。見よ、わたしはあなたに敵対する。(…中略…)わたしはあなたがたを、その行いの実にしたがって罰する。
神様との関係は行ないに出ます。行ないのない、口だけの信仰はムダな演技です。信仰は行ないに出ます。神様は「行いの実にしたがって罰する。」と言われます。(14)
(マタイ7:21)
わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
(ヤコブ2:20)
ああ愚かな人よ。あなたは行ないのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。
僕らに信仰が与えられ、心から従いたいと思えるのは聖霊の力です。聖霊によらなければ誰も信じることも従うこともできません。
信じている風な振る舞いを演じるのでなく、神様が内側から僕らを新しくしてくださいますように。今日も自分は死んで、キリストが生きておられることが明らかにされますように。
(ガラテヤ2:20)
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
0 件のコメント:
コメントを投稿