「体のよみがえり、永遠の命を信じます」と教会が告白しているのは、聖書がそう教えているからです。死後、魂だけがポワーンと神様のみもとに行くのでなく、聖書は明らかに体の復活を教えています。当然僕らは「死後の体ってどんなの?」って思います。
聖書は「畑を見なさい」と言い、小さな種が死んだように見えて、土の中に入って全然違う新しい体に復活するようだ、と説明しています。(1コリント15章)そのことを「栄光の体」と表現しています。
(ピリピ3:21)
私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。
(1コリント15:42-44)
朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。
そのからだは、疲れも病気もない完全なからだです。さらに、僕らの人生には人間関係の悩みが常にありますが、そのからだには人間関係の悩みも苦しみもありません。結婚関係もなくなるとイエス様はおっしゃいます。
(30節)
復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。
当時「復活などあり得ない!」と主張していたサドカイ派の人たちはイエス様に挑戦して質問しました。イエス様を困らせ、バカにするための質問です。彼らの質問は「復活があったら困るだろう、再婚した人たちは誰の妻になるのか?」というものです。
(23-28節)
その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問して、言った。「先生。モーセは『もし、ある人が子のないままで死んだなら、その弟は兄の妻をめとって、兄のための子をもうけねばならない。』と言いました。ところで、私たちの間に七人兄弟がありました。長男は結婚しましたが、死んで、子がなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、七人とも同じようになりました。そして、最後に、その女も死にました。すると復活の際には、その女は七人のうちだれの妻なのでしょうか。彼らはみな、その女を妻にしたのです。」
その質問にイエス様は答えます。
(29-30節)
しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。
復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。
僕らには復活の希望があります。今、弱くても、いろんな人間関係で苦しんだとしても、復活の時には全てから解放されています。
僕らは目先のことだけを見て思い悩みます。それは、神様の力を知らないからです。神様は僕らの考えをはるかに超えている方です。自分の考えの小さなワクの中に神様のご計画を押し込めてしまおうとすることは「思い違い」だし、「聖書も神の力も知らない」ことです。
僕らが地上で生活しているのは「旅人であり寄留者である」と聖書は言います。(ヘブル11.14)僕らは二重国籍者です。日本人であり、同時に天の国籍を持っています。そして、復活した後の人生こそ本当の居場所です。「さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷」です。(ヘブル11.16)そして、その時のからだは僕らの想像をはるかに超えています。「天の御使いたちのよう」であり、「栄光のからだ」です。
地上の結婚関係は解消し、全く新しく神様との新しい関係、新しいからだ、新しい歩みが待っています。今、幸せな結婚生活の人も、そうでない人も、僕らが思う以上の新しい世界に入れられます。
今から4000年ほど前に亡くなったアブラハムも、イサクも、ヤコブも今も生きています。イエス様はおっしゃいます。
(32節)
『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」
神様がくださる新しいからだは僕らの想像をはるかに超えています。今苦しんでいても、今満たされていても、それ以上です。聖書が教える死後の世界は希望しかありません!ハレルヤ!
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