キリスト教会の中にもいろんな派閥があって、聖書の中でも大事にする教えが違ったりします。どの教えを優先するか?の違いでで批判しあったり、仲違いすることもあると思います。これはイエス様の時代の聖書の先生たちも同じでした。彼らは旧約聖書に書かれた神様の教え(律法)の中でどれを優先すべきか?で議論したり批判しあったりしていたようです。そして、イエス様もこの議論に巻き込まれました。巻き込まれたというより、イエス様をやっつけるために、わざとこの意地悪な質問がされました。
(35-36節)
そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
この質問は、どのように答えても非難されます。非難するための質問です。「この教えが大切です」と言えば、「じゃあ、こっちの教えは軽いのか!」と攻撃されます。どのように答えても攻撃対象になってしまいます。ところが、イエス様は見事に答えられました。
(37-40節)
そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
イエス様は旧約聖書(律法全体と預言者、とは旧約聖書全体のことです。)が全て、この2つの教えにかかっていると言われました。全部の教えがどれが大切でどれが軽い、ということではなく、全部が神様を愛し隣人を愛する目的のためにあります。聖書の教えの全ては「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛する」ための教えです。そして、全ては「隣人をあなた自身のように愛する」ための教えです。
神様の教えは愛するためのものです。
普通、日本の法律を学んでも「国会を愛するため」とは思いません。ですが、神様の教えを学ぶことは、神様を愛するため、そして隣人を愛するためです。
逆に、愛がなければどんなに熱心に聖書の教えを学んでも守っても意味がありません。
(1コリント13:1-3)
たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
僕らが聖書を読み、学ぶ理由は神様を愛するためです。そして隣人を愛するためです。ただ文字に従うのなら何の役にも立たないし、知識を増やすことも意味がありません。
聖書を学ぶことは「私は神様に従ってるいい人です」というためではないし「うちの教会の派が正しい!」というためでもありません。
聖書の教えの全ては神様を全てをかけて愛し、隣人を自分のように愛することです。
これは僕らから出るものではなく「賜物」「プレゼント」です。(1コリント12.31)神様に求めましょう。神様と隣人を愛することこそ、聖書の全ての教えの目標です。神様は僕らにその愛を与えてくださいます。
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