小さな争いを放置すると大きな戦争になることがあります。また、小さな高ぶりや怒りも同じです。高ぶって相手よりも優位に立ちたい、相手をやっつけたいという気持ちはどんなに小さくても放置すると大きくなって手がつけられなくなります。なので聖書は小さな争いのうちにそれをやめなさい、と教えています。
(箴言17:14)
争いの初めは水が吹き出すようなものだ。争いが起こらないうちに争いをやめよ。
また高慢や争いの悪は放置すると関係者全員に悪影響を与えるものに膨れ上がります。
(1コリント5:6)
あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。
サウルの部下であった将軍アブネルとダビデの部下である将軍ヨアブは最初「若い者たちに闘技をさせよう」と言います。この時すでに高慢や恨みという罪の種があったようです。この闘技は闘技で終わらず、戦争に発展して行きます。まさに小さな高ぶりや怒りが大きく膨れ上がる実例です。
(14節)
アブネルはヨアブに言った。「さあ、若い者たちを出して、われわれの前で闘技をさせよう。」ヨアブは言った。「出そう。」
この闘技は互いに殺し合うまでに激しくなります。
(16-19節)
彼らは互いに相手の頭をつかみ、相手のわき腹に剣を刺し、一つになって倒れた。(…中略…)その日、戦いは激しさをきわめ、アブネルとイスラエルの兵士たちは、ダビデの家来たちに打ち負かされた。(…中略…)アサエルはアブネルのあとを追った。右にも左にもそれずに、アブネルを追った。
ついにはイスラエルの将軍アブネルを殺すためにアサエル(ダビデの将軍ヨアブの弟)は追いかけ続けます。アブネルは逃げ続けますが、あまりにもしつこく追いかけてくるのでついにアサエルを槍で殺してしまいます。
(23節)
それでもアサエルは、ほかへ行こうとはしなかった。それでアブネルは、槍の石突きで彼の下腹を突き刺した。槍はアサエルを突き抜けた。アサエルはその場に倒れて、そこで死んだ。アサエルが倒れて死んだ場所に来た者はみな、立ち止まった。
「闘技をさせよう」という高ぶりは、終わってみると互いに大勢の兵士が死ぬ結果になってしまいました。
(30-31節)
一方、ヨアブはアブネルを追うのをやめて帰った。兵士たちを全部集めてみると、ダビデの家来十九人とアサエルがいなかった。
ダビデの家来たちは、アブネルの部下であるベニヤミン人のうち三百六十人を打ち殺していた。
僕らの生活の中でも、しばしば小さなイライラや高ぶりの種が心に入って来ます。それを放置したりその怒りに身を任せていくと、結局罪に身を委ね、悪魔の思うツボにはまってしまうことになります。聖書は悪に打ち勝ちなさい、と言います。仕返しするのが勝利ではなく、悪に対して善を返し、赦しで返すことが勝利です。
(ローマ12:20-21)
もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。
僕らの心の中に芽生える小さな高ぶりや悪を放置することがありませんように。必ず赦す祈りをしましょう。仕返しで返すのではなく、神様に報告し、正しい、善を行う選択をしましょう。イエス様はもう悪に勝利しています。そして、そのイエス様に委ね、相談し、告白して行動する時に悪には勝てます。善をもって悪に打ち勝ちましょう。イエス様は勝利の方です。ハレルヤ!
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