僕らは「愛」と聞くと、受け入れてくれるとか、抱きしめてくれるとか、そんなポワーンとした暖かい感じがします。…ですが、聖書が教える「神様の愛」とは犠牲を払うことです。もちろん神様の愛には暖かさがあります。ですがそれ以上に他の人のために自分の何かを手放し、与え、他の人のために傷ついたり忍耐したりすることが愛だと聖書は教えます。
イエス様は神様の愛の現れです。イエス様は何の不自由もない方ですが、僕ら人間を愛するために神様としての立場や権威を全部捨てて地上に赤ちゃんとして来てくださいました。
イエス様は何しに来たの?と言う質問に2つの答えがあります。
①僕ら人間を愛し、赦すために人間が受けるべき神様の怒りと呪いを身代わりに受けるため。
イエス様が地上に来られたのは十字架の上で「死ぬため」でした。イエス様は苦しみ、殺されたのは僕ら人間の罪を赦すための犠牲のささげものであり、神の怒りをなだめるための生贄だと聖書は教えます。
(ピリピ2.6-8)
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
(1ヨハネ4:10)
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
②神様の僕ら人間への愛を現すため。
(ローマ5:8)
私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
神様の愛は他人のために犠牲を払うことであり、受けることでなく、与えることです。ご自分の命を与えて愛してくださることで、それを具体的に表してくださいました。
この神様の愛は僕ら人間にも与えられています。イエス様はおっしゃいました。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)
僕らの本性はいつもリスクをなるべく避け、与えるよりも受けることを求め、安全圏内にとどまりたがります。口では愛について話しますが実際には行動しません。でも、神様から与えられた愛の力は人のために命を捨てます。そして神様に対しても受けるより捧げます。これは神様のご性質です。神様はこの愛を聖霊によって僕らにも与えてくださいます。「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5.5)
ダビデの時代に神様から愛と力を与えられ、これを実践する勇士がいました。逃亡中の王様ダビデに水を飲ませるために、敵がいる井戸まで命をかけて水を汲んできてくれた勇士が聖書に記録されています。
(14-16節)
そのとき、ダビデは要害におり、ペリシテ人の先陣はそのとき、ベツレヘムにあった。
ダビデはしきりに望んで言った。「だれか、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらなあ。」
すると三人の勇士は、ペリシテ人の陣営を突き抜けて、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持って来た。
ダビデは部下が命をかけて汲んできてくれたことを知って、その水を飲まずに神様への捧げました。
人が命をかけて誰かを愛したり助けたりするのは、神様の愛の現れです。ダビデはその愛の源である神様への感謝としてその水を神様に捧げました。
(16-17節)
ダビデは、それを飲もうとはせず、それを注いで主にささげて、言った。「主よ。私がこれを飲むなど、絶対にできません。いのちをかけて行った人たちの血ではありませんか。」彼は、それを飲もうとはしなかった。三勇士は、このようなことをしたのである。
命の危険を冒して戦い他人を守った勇士のことが他にも書かれています。
聖書が教える「勇士」とは、その人の力とか勇気ではなく、神様から力と愛が与えられた人です。聖書は「ベナヤ」を勇士だと伝えています。彼が強かったのではなく、彼は神様の力と愛を信じて実行した人です。
(21-22節)
彼(ベナヤ)はまた、あの堂々としたエジプト人を打ち殺した。このエジプト人は、手に槍を持っていた。彼は杖を持ってその男のところに下って行き、エジプト人の手から槍をもぎ取って、その槍で彼を殺した。
エホヤダの子ベナヤは、これらのことをして、三勇士とともに名をあげた。
彼は自分は杖しか持っていないのに、槍を持つエジプト人と戦い勝利しました。彼の力でなく、神様の力と愛です。
僕は力も愛も足りません。でも、神様は求める人に力と愛を注いてくださいます。僕らが弱くてもイエス様の力と愛は満ちています。弱い時こそ主の力が現れます。
(2コリント12.9-10)
しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(…中略…)私が弱いときにこそ、私は強いからです。
神様の愛と力が僕らにも与えられます。今日も自分でなく神様の愛と力の現れの日でありますように!
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