2023年1月26日木曜日

2サムエル24章

 神様を知った人は良いものを与えてくださる神様の力と恵みを知り続けます。そして、今まで自分の力や考えに頼っていたことがどんなに小さく愚かなことだったかを知るようになります。


ダビデは貧しく力のない羊飼いでした。そんな彼が神様に選ばれてイスラエルの王様になって富と知恵と栄光を手にするようになりました。全部が神様の力と栄光と恵みです。…そんなダビデですが、晩年になって神様を忘れて失敗します。彼は自分の栄光と力(軍事力)を求め始め、人口の多さや軍事力を自分の手柄のように思い始めます。まるで自分のもののように人口を数え、兵を数えたがって傲慢になっていくダビデをそのままにさせます。でも、そのことを神様は怒ります。


(1-4節)

さて、再び主の怒りが、イスラエルに向かって燃え上がった。主は「さあ、イスラエルとユダの人口を数えよ。」と言って、ダビデを動かして彼らに向かわせた。王は側近の軍隊の長ヨアブに言った。「さあ、ダンからベエル・シェバに至るまでのイスラエルの全部族の間を行き巡り、その民を登録し、私に、民の数を知らせなさい。」すると、ヨアブは王に言った。「あなたの神、主が、この民を今より百倍も増してくださいますように。王さまが、親しくこれをご覧になりますように。ところで、王さまは、なぜ、このようなことを望まれるのですか。」

しかし王は、ヨアブと将校たちを説き伏せたので、ヨアブと将校たちは、王の前から去って、イスラエルの民を登録しに出かけた。


このことはサタン(悪魔)の誘惑だったと聖書は解説しています。(1歴代誌21章)悪魔の仕事は神様を忘れさせることですそして、神様に感謝せず神様をほめずに自分をたたえ自分に栄光があるように思わせることです

ダビデはこの誘惑に会い、国の力を自分のもののように数えさせました。将軍ヨアブはその命令を受けたときにすぐにこの間違いに気がついて「神、主が、この民を今より百倍も増してくださいますように。」「王さまは、なぜ、このようなことを望まれるのですか。」と言います。でもダビデは強く説き伏せて人数を数えさせました。


ダビデは後でその間違いに気がつき、良心が痛み始めます。これは神様が良くしてくださったことを忘れ、栄光と賞賛を自分のものにしようとする傲慢でした。


(10節)

ダビデは、民を数えて後、良心のとがめを感じた。そこで、ダビデは主に言った。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。主よ。今、あなたのしもべの咎を見のがしてください。私はほんとうに愚かなことをしました。」


僕らもこの誘惑にさらされています。

昨日、シンガポールの大教会の人と食事の席で、僕が「すごい数の教会員」って話をしたら、彼はすぐ言いました。「人数の多さは重要ではない。それよりも(神様の子どもとしてイエス様の弟子として)成長するかどうかです。」と。クリスチャンの成長は神様の栄光を求めるようになることです教会の人数が多いことは神様の恵みです問題はそれを人間の自分の手柄や栄光にしようとすることです悪魔は僕らに自慢のために人数を増やさせたり結果を出そうとさせたがります。これこそ神様の栄光を横取りしようとする僕らの罪であり、悪魔の誘惑です教会の中にも僕ら個人にもこの誘惑はいつも入り込みます。これは神様の栄光と力に対する侮辱です


ダビデはすぐにこの間違いに気がついて神様に謝りました。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。主よ。今、あなたのしもべの咎を見のがしてください。私はほんとうに愚かなことをしました。」と(10節)


罪に対する神様の怒りと裁きはあります。この時、預言者はダビデに神の裁きを預言し、神様はイスラエルに病気を与え7万人が死にました。聖書は罪に対する神様の怒りと裁きがあることをハッキリと書いています。


(13-15節)

ガドはダビデのもとに行き、彼に告げて言った。「七年間のききんが、あなたの国に来るのがよいか。三か月間、あなたは仇の前を逃げ、仇があなたを追うのがよいか。三日間、あなたの国に疫病があるのがよいか。今、よく考えて、私を遣わされた方に、何と答えたらよいかを決めてください。」ダビデはガドに言った。「それは私には非常につらいことです主の手に陥ることにしましょう。主のあわれみは深いからです人の手には陥りたくありません。」すると、主は、その朝から、定められた時まで、イスラエルに疫病を下されたので、ダンからベエル・シェバに至るまで、民のうち七万人が死んだ。


ダビデの罪への裁きとして国民7万人が死にました。

ダビデは自分のせいで人々が死んでいくのが耐えられません。苦しみ、祈るダビデに神様は預言者を通して「祭壇を作りなさい」「生贄を捧げなさい」と言ってくださいます。


(17-18節)

「罪を犯したのは、この私です。私が悪いことをしたのですこの羊の群れがいったい何をしたというのでしょう。どうか、あなたの御手を、私と私の一家に下してください。」その日、ガドはダビデのところに来て、彼に言った。「エブス人アラウナの打ち場に上って行って、主のために祭壇を築きなさい。」


「祭壇を築きなさい」とは、その上で動物を殺して神様に焼いて捧げなさい、という意味ですこれには以下の意味があります。

①自分の全ての栄光も力も命も捧げます、と言う意思表示をすること。その現れとして動物の命を自分の代わりにして焼き尽くすこと。

②動物が自分の身代わりとして死んでいくことで神様に赦され、神様と和解したことを現すこと。


ダビデはその土地の所有者に代金を支払って祭壇を築き、牛を捧げ、全ての栄光と力は神様のものであることを祈り、罪の赦しを祈りました。神様はその祈りに答えてくださいました。


(24-25節)

しかし王はアラウナに言った。「いいえ、私はどうしても、代金を払って、あなたから買いたいのです。費用もかけずに、私の神、主に、全焼のいけにえをささげたくありません。」そしてダビデは、打ち場と牛とを銀五十シェケルで買った。こうしてダビデは、そこに主のために祭壇を築き、全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげた。主が、この国の祈りに心を動かされたので、神罰はイスラエルに及ばないようになった。


聖書が僕らに教えている福音(良い知らせ)とは、僕らへの神様の怒りと呪いはイエス様が身代わりに引き受けてくださったことです。罪のある僕らは神様に赦され、神様と和解し、神様の怒りや罰は過ぎ去りました。

罪を告白して謝る人に罰はありません。

このダビデの話はイエス様が十字架にかかってくださる約1000年くらい前の話です


今日も僕らはすぐに自慢したがります。悪魔も頑張ってます。

神様の栄光でなく人の業績を賛美をさせようと誘惑し、僕らは傲慢への罪へと引きずられています。

聖書はダビデを賛美していません。最後まで失敗し傲慢になっていくダビデを赦し、愛し続けてくださった神様を賛美しています。


今日も神様は僕らの傲慢の罪を教え気づかせてくださいます。

イエス様の十字架の死刑は今日も僕らの罪を赦し、きよめ、和解させていただいていることを現しています。

僕らがただ、神様だけを誉めたたえますように。

僕らの人生の全ての栄光が、ただ主にだけありますように。ハレルヤ!

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