「いいことしたら神様が救ってくれる」というのは間違いですが、逆に、「神様を信じるだけでオッケー。行いは関係ない」というのも間違いです。神様の子どもになった人は行ないも良いものに変わってきます。「神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」とあります。(エペソ2.10)
僕は思ったことを隠さずハッキリ言うのが好きだし、「ぶっちゃけトーク」好きな人は多いようです。…ですが、それは間違いです。むしろ自制して礼儀を守り品位を保ちなさいと聖書は言います。言いたい放題はやめること、愛すること、慎むこと、神様を信頼することはセットです。
(1-5節)
しかし、あなたは健全な教えにふさわしいことを話しなさい。老人たちには、自制し、謹厳で、慎み深くし、信仰と愛と忍耐とにおいて健全であるように。同じように、年をとった婦人たちには、神に仕えている者らしく敬虔にふるまい、悪口を言わず、大酒のとりこにならず、良いことを教える者であるように。そうすれば、彼女たちは、若い婦人たちに向かって、夫を愛し、子どもを愛し、慎み深く、貞潔で、家事に励み、優しく、自分の夫に従順であるようにと、さとすことができるのです。それは、神のことばがそしられるようなことのないためです。
神様の子どもは「ねばならない」と言うルールに縛られるのでなく自由です。悪口や攻撃をやめて慎みや品位を持ちたい、と思うのは神様から与えられる新しい心です。時間はかかりますが必ず変えられて行きます。僕もまだ練習中ですが、特に牧師やリーダーは心と口と態度が変えられ「模範」となるようにと聖書は教えます。聖書を教える人が言いたい放題、やりたい放題だと神様の教えも台無しです。
僕らに(牧師やリーダーは特に)神様の心が与えられ、行いや態度が良くなると、神様のことばが人にバカにされることが少なくなります。周りの人たちが悪く言えなくなります。
(7-8節)
また、すべての点で自分自身が良いわざの模範となり、教えにおいては純正で、威厳を保ち、非難すべきところのない、健全なことばを用いなさい。そうすれば、敵対する者も、私たちについて、何も悪いことが言えなくなって、恥じ入ることになるでしょう。
どんな立場であっても隣人に愛と誠実をあらわすと、神様が単なる教えとか宗教じゃなくて、本当に生きて力のある神様だと周りにもわかります。僕らが愛と誠実さをあらわすのは「神の教えを飾るようになるため」と聖書は言います。(10節)
(9-10節)
奴隷には、すべての点で自分の主人に従って、満足を与え、口答えせず、盗みをせず、努めて真実を表わすように勧めなさい。それは、彼らがあらゆることで、私たちの救い主である神の教えを飾るようになるためです。
イエス様は十字架で命をささげてくださって僕らの罪を赦してくださいました。それがゴールではありません。言いたい放題、やりたい放題だった僕らを正しく慎み深い行いへと変えてくださり、イエス様が完全な祝福を持ってもう一度この地上に来てくださる希望を与えてくださっています。僕らは「良いわざに熱心な神様の民」へときよめられて行きます。
(12-14節)
その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲とを捨て、今の世にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの、栄光ある現われを待ち望むように教えています。
キリストは私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるため、私たちのためにご自分を献げられたのです。
僕らの心が、態度が、この口が神様の愛と慎みの品位を現し、ますます神様の栄光が誉めたたえられますように!
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