僕らにとって大問題でも神様にとっては小さなことです。だから聖書はまず神様を第一に求めなさい、と言います。(マタイ6.33)僕らが心配する全てのことは神様にとっては小さなことです。イスラエルとユダとエドムの連合軍が戦争に出る時、移動途中で全軍と家畜のための水が無くなる危機的な事態が起こりました。そこには三人の王いて、それぞれの対応が書かれています。問われているのは神様との関係です。
まず、イスラエルのヨラム王は神様に願わず、聞きもせず、「ああ、主がこの三人の王を呼び集めたのは、モアブの手に渡すためだったのだ」と悪いことを全部神様のせいにして嘆きます。(10)
(9-10)
こうして、イスラエルの王は、ユダの王とエドムの王と一緒に出かけたが、七日間も回り道をしたので、陣営の者と、後について来る動物たちのための水がなくなった。
イスラエルの王は、「ああ、主がこの三人の王を呼び集めたのは、モアブの手に渡すためだったのだ」と言った。
(13)
「いや、モアブの手に渡すために、この三人の王を呼び集めたのは、主だ。」
反対にユダのヨシャファテ王は神様のみことばを求めます。みことばを語ってくれる預言者を求め、神様は預言者エリシャを通して語ってくださいます。神様は彼らに水を与え、さらに敵との戦いでの勝利を約束してくださいました。
(11-12)
ヨシャファテは言った。「ここには、主のみこころを求めることができる主の預言者はいないのですか。」すると、イスラエルの王の家来の一人が答えた。「ここには、シャファテの子エリシャがいます。エリヤの手に水を注いだ者です。」
ヨシャファテが、「主のことばは彼とともにあります」と言ったので、イスラエルの王と、ヨシャファテと、エドムの王は彼のところに下って行った。
(16-19)
彼(エリシャ)は次のように言った。「主はこう言われます。『この涸れた谷にはたくさんの水がたまる。』
主がこう言われるからです。『風を見ず、大雨を見なくても、この涸れた谷には水があふれる。あなたがたも、あなたがたの家畜も、動物もこれを飲む。』これは主の目には小さなことです。主はモアブをあなたがたの手に渡されます。
あなたがたは、城壁のある町々、立派な町々をことごとく打ち破り、すべての良い木を切り倒し、すべての水の源をふさぎ、すべての良い畑を石をもって荒らすでしょう。」
神様が言われた通りに水は与えられました。しかもそのことは神様にとっては「小さなこと」でした。信仰とは、まだ見ていないけど神様のことばを信じて進むことです。僕らが求めるべきは神様のことばです。人間にとって大問題でも、神様にとっては小さなことです。この神様のことばを信じて歩むのが信仰です。
神様に聞くよりも自分の判断や妄想を優先し、決めつけてしまうのが僕らの愚かさです。しかもそれを神様のせいにします。神様のみことばは僕らを生かすことばです。僕らにとって大問題でも、神様にとっては小さなことです。
今日も神様のことばを求めましょう。勝手に妄想して神様のせいにするのでなく、神様のことばを求め、信じましょう。どんなに大きな問題も神様にとっては小さなことです。
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