最初は人間は神様と交わるように作られましたが、人間が罪を犯して汚れてからは、聖なる神様に近づくことはできなくなってしまいました。もしも汚れたままで聖なる神様に近づくなら殺されてしまいます。近づけないほど聖なる聖なる神様なのに、それなのに神様は「あなたがたの所に住みたい、あなたがた交わりたい、語りたい」と願ってくださいます。(出エジプト29.42-43)
僕らの罪はイエス様が十字架で身代わり処刑を受けてきよめられます。神様に近づき、神様と交わるためにはイエス様の十字架による赦ししか道はありません。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と言われた通りです。(ヨハネ14:6)
イエス様が十字架で処刑される以前の人々は、神様に赦され、神様に近づくために動物を自分の身代わりとして犠牲にして殺し、それを捧げることで神様に近づき、神様を礼拝しました。動物が殺されて人が赦されることは、将来イエス様の十字架の処刑によってきよめられることの予告のようでした。
神様が人の間に住みたいと願い、同時に人はきよめられる必要がありました。それを表すように、神様はイスラエルの居住区の真ん中に神様が臨在される場所(聖所)を作りなさい、とおっしゃいました。その聖所の中心に置かれたのが、「神の箱」です。「神の箱」は神様がここにおられる、ということを表していました。そして、その「神の箱」に近づくには動物の犠牲の血が必要でした。その手順が旧約聖書にハッキリ書かれています。
ダビデは王様になり、エルサレムに住んだ時、そこに「神の箱」を置くことを願いました。それは神様がエルサレムにおられることを表すためです。「神の箱」はただの象徴ではなく、本当にそこに神様がおられました。実際、「神の箱」は聖なるもので、一般の人は見ることも触ることも許されていません。「神の箱」を移動するときにはそれを覆って、そして神様に選ばれたレビ人のケハテ族だけがそれを担ぐようにと定められています。(出エジプト25章、民数記4章)その理由は「彼らが聖なるものに触れて死なないためである。」(民数記4.15)「一目でも聖なるものを見て死なないためである。」(民数記4.20)とあります。神様の箱に汚れたままの人が触れると死んでしまいます。
神さまは今も昔も聖なる聖なる方です。それでも神様は人間と交わりたいと願っておられます。だから、聖なるものに触れて人間が死なないように、犠牲の血が必要です。そして、神様が定めた方法で神様に近づくことが必要です。
ダビデは聖なる「神の箱」をエルサレムに運びたいと願い、熱心さも喜びもありましたが、神様に近づくために定められた神様の方法を忘れていました。
(2-5節)
ダビデはユダのバアラから神の箱を運び上ろうとして、自分につくすべての民とともに出かけた。(…中略…)彼らは、神の箱を、新しい車に載せて、丘の上にあるアビナダブの家から運び出した。アビナダブの子、ウザとアフヨが新しい車を御していた。(…中略…)ダビデとイスラエルの全家は歌を歌い、立琴、琴、タンバリン、カスタネット、シンバルを鳴らして、主の前で、力の限り喜び踊った。
ダビデは熱心だったし、賛美も熱かったです。喜びもありました。賛美もダンスも心からのささげものでした。でも、神様がお決めになった方法は忘れていました。神の箱はレビ人のケハテ族の人だけが担ぐことは忘れ、牛車にそのまま乗せました。神様のために新品の牛車を用意しました。でも、神様の方法ではありませんでした。そして、人が赦され、殺されないように犠牲をささげることも忘れていました。
(6-8節)
こうして彼らがナコンの打ち場まで来たとき、ウザは神の箱に手を伸ばして、それを押えた。牛がそれをひっくり返しそうになったからである。すると、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、神は、その不敬の罪のために、彼をその場で打たれたので、彼は神の箱のかたわらのその場で死んだ。ダビデの心は激した。ウザによる割りこみに主が怒りを発せられたからである。それで、その場所はペレツ・ウザと呼ばれた。今日もそうである。
このことはダビデにとっても人々にとってもショックでした。そもそもウザは神様が定めたレビ人のケハテ族ではありません。しかも、ウザはこの箱が聖なるものであり、それに触れると死ぬことを知らなかったようです。まるで普通の荷物のように扱いました。この責任はダビデにもあります。いくら熱心であっても、神様の定めた方法によって赦され、きよめられなければ神様に近づくことも、神様をお迎えすることもできないことをしっかり教えられる事件でした。
(9節)
その日ダビデは主を恐れて言った。「主の箱を、私のところにお迎えすることはできない。」
確かにダビデは心が神に向けられていました。でも、神様が定めてくださった赦しときよめの方法を忘れていました。「熱心だけで知識のないのはよくない。急ぎ足の者はつまずく。」 (箴言 19:2)とあります。 ダビデは箱をエルサレムに運び込むことを一時中断します。その間、もう一度神様のみことばを調べ、考え直したようです。
(11節)
こうして、主の箱はガテ人オベデ・エドムの家に三か月とどまった。主はオベデ・エドムと彼の全家を祝福された。
この3か月の間にダビデが考え直し、もう一度みことばの通りにやり直すようにしたことが1歴代誌15章に書かれています。
(1歴代誌15.13-15)
最初の時には、あなたがたがいなかったため、私たちの神、主が、私たちに怒りを発せられたのです。私たちがこの方を定めのとおりに求めなかったからです。」そこで、祭司たちとレビ人たちは、イスラエルの神、主の箱を運び上るために身を聖別した。そして、レビ族は、モーセが主のことばに従って命じたとおり、神の箱をにない棒で肩にかついだ。
ダビデはもう一度、神様の方法にしたがって神の箱を運びました。聖なる神様に近づくためには、犠牲の血によってきよめられることが必要でした。また、聖なる箱は神様によって定められた人(レビ人のケハテ族の人)が担ぎました。
(12-15節)
そこでダビデは行って、喜びをもって神の箱をオベデ・エドムの家からダビデの町へ運び上った。主の箱をかつぐ者たちが六歩進んだとき、ダビデは肥えた牛をいけにえとしてささげた。ダビデは、主の前で、力の限り踊った。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた。ダビデとイスラエルの全家は、歓声をあげ、角笛を鳴らして、主の箱を運び上った。
もしも汚れたままで聖なる神様に近づくなら殺されてしまいます。これは今も変わらないことです。だのに、そんな汚れた僕らに神様の側から、交わりたい、一緒に住みたいと願ってくださるのも今も変わらない真実です。
神様に近づき、神様と交わるためにはイエス様の十字架による赦ししか道はありません。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と言われた通りです。(ヨハネ14:6)
神様は僕らと一緒にいてくださいます。今は神の箱はありません。神様は僕らと一緒にいてくださいます。それは、僕らの罪がイエス様によって赦され、きよめられたからです。
イエス様の十字架によって赦されたことを信じること、きよめられていることを信じること、これだけが唯一の道です。僕らが急に神様に殺されることはありません。なぜなら、イエス様が身代わりに怒りを受けて死んでくださったからです。
(へブル 10:19-22)
私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。(…中略…)私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。
大丈夫です。もうウザのように殺されることはありません。ただ、イエス様の十字架の死と復活を感謝しましょう。信じて大胆に、そして安心して神様に近づくことができます。主と交わるためにイエス様が払ってくださった犠牲は大きすぎます。僕らに与えられた特権はすごいことです。感謝しましょう。ハレルヤ!
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