2023年1月11日水曜日

ルカ6.37-49

 みんな自分なりの正義感を持っていて、それを主張します。ところが正義感の強い人ほど厄介です。「自分は正しい」という前提で他人を裁くからです。イエス様は「あなたは正しくない」「もっと大きな罪がある」とおっしゃいます。自分の罪を棚にあげて他人を直してやろうと思う人は、まるで盲人が盲人を案内するかのようです


(39節)

イエスはまた、彼らに一つのたとえを話された。「盲人が盲人を案内できるでしょうか。二人とも穴に落ち込まないでしょうか。


(41-42節)

あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分自身の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。

あなた自身、自分の目にある梁が見えていないのに、兄弟に対して『兄弟、あなたの目のちりを取り除かせてください』と、どうして言えるのですか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、兄弟の目のちりがはっきり見えるようになって、取り除くことができます。


僕ら人間は正義を主張できるような人ではありません。まして他人を裁けるような人ではありません。他人の欠点を指摘する前にまず、自分の中にある大きな罪を認めて神様に謝る人、悔い改めて神様に従う人は他人を裁かず、憐れみ、ゆるします。自分の方こそひどい罪人だと知っているからですその人は神様に喜ばれ、人からも良いものが与えられます。


(37-38)

さばいてはいけません。そうすれば、あなたがたもさばかれません。人を不義に定めてはいけません。そうすれば、あなたがたも不義に定められません。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦されます。

与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。詰め込んだり、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前良く量って懐に入れてもらえます。あなたがたが量るその秤で、あなたがたも量り返してもらえるからです。」


あの人がどうなのか、この人はどうなのか、あの教会はどうなのか、と他人のことをとやかく言うことは、自分の心が高ぶりや裁きなどの悪でいっぱいになっている証拠です。「人の口は、心に満ちていることを話すからです。」(45節)僕らの行いや発言は心の状態を表しています。自分の口から怒りや裁きの言葉が出てくるか、感謝や喜びや愛の言葉が出てくるかでイエス様との関係が明らかになります。


(43-45)

良い木が悪い実を結ぶことはなく、悪い木が良い実を結ぶこともありません。

木はそれぞれ、その実によって分かります。茨からいちじくを採ることはなく、野ばらからぶどうを摘むこともありません。

良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。人の口は、心に満ちていることを話すからです


口は心をあらわします。

僕らはまず自分の心をきよめていただく必要があります。悪や裁きや高ぶりで一杯なままでは他の人を導くことはできません

他人の罪を見聞きしたら、さばく前に同じ罪人仲間として、自分のこととして謝りましょう。もっと大きな罪をイエス様は赦してくださいました。今日も天でとりなしていてくださっています。僕らは赦された罪人にすぎません。僕らの心が今日も神様への感謝で満たされますように。

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