イエス様が育った町は「ナザレ」です。また、大人になってからは「カペナウム」という町にすみました。両方とも「異邦人のガリラヤ」と言われる場所で、イスラエル人から見ると印象が悪い汚れた地域です。
もともとはイスラエルの領地でしたが、アッシリヤという国に侵略されて、アッシリヤ人が住むようになりました。
プライドの高いイスラエル人から見ると、汚れた外人たちランクの低い外人たちに汚染されてしまったと言われる地域が「異邦人のガリラヤ」です。
そのような暗い場所、見下された土地でイエス様は育ち、住んでくださいました。イエス様が地上に生まれる700年も前に預言者イザヤはそれを預言しています。
(1-2節)
しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。
神様はまだ先のことなのに、将来には希望があると断言されました。
(3-4節)
あなたはその国民をふやし、その喜びをまし加えられた。
彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。
この預言を聞いて信じた人はずっと希望を持っていました。実際の生活は変わらなくても、将来には希望があることに安心していました。
聖書はいつもそう教えています。
(ヘブル 11:1-2)
信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々はこの信仰によって称賛されました。
(2コリント 4:18)
私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
神様のことばを信じるのが信仰です。神様のことばがなければ僕らは見える状況だけに振り回され、人のことばに振り回されます。でも、神様のことばは実現する希望のことばです。忍耐することはやせ我慢ではなく、神様のことばを楽しみにすることです。
イエス様はイザヤの預言通りにこの地上に、あの残念な地域にきてくださいました。
(6-7節)
ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。
ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。
イエス様が地上に来られた時(今から約2000年前)この預言が実現しました。イエス様は今も主権者であり、僕らへの助言者であり、力ある神、永遠の父、平和の君です。イエス様は王として今も、永遠まで世界を支配しておられます。それはもう始まっています。
このことを説明するために新約聖書マタイの福音書は繰り返してイザヤの預言を引用しています。
(マタイ 4:14-17)
これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、
「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
イエス様は「悔い改めなさい(方向を変えなさい)天の御国(イエス様の王国、支配)が近づいたから」とおっしゃいました。
僕らの王はイエス様です。だから、あの人この人に従うのではなく、自分の力を求めるのではなく、本当の王であるイエス様に方向を変えなさい、とおっしゃっています。
このイエス様の前では軍事力は意味が無くなります。イエス様の王国に軍隊はいりません。戦いの武器は神様のことばだけです。
(5節)
戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる。
聖書は神様のことばこそが剣だと言います。神様のことばを聞いて、仕返しすåるのではなく相手を赦し、敵を祝福し、愛し、忍耐することが勝利です。
苦しみの中にイエス様が来てくださいました。人のことばでなく、このイエス様こそが「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」です。暗闇の中に光と喜びをもたらす王様はもう僕らのところに来ています。人のことばでなく、この方に聞きましょう。ハレルヤ!
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