僕らは自分なりに「これは良い、これは悪い」と判断しますが、全てを超えた神様の支配は僕らが考える善悪ははるかに超えています。
イスラエルを侵略したアッシリヤは残酷な国だったそうです。僕らは「アッシリヤは悪い」と判断しますが、なんと神様がアッシリヤを使ってイスラエルを踏みにじったと聖書は言います。その歴史の全てに神様の意図があります。
(5-6節)
ああ。アッシリヤ、わたしの怒りの杖。彼らの手にあるむちは、わたしの憤り。わたしはこれを神を敬わない国に送り、わたしの激しい怒りの民を襲えと、これに命じ、物を分捕らせ、獲物を奪わせ、ちまたの泥のように、これを踏みにじらせる。
アッシリヤは神様に用いられているとは気づかず、ただ残酷に滅ぼすことだけを考え、自分たちには強いと思っています。彼らが高ぶり、エルサレムを踏みにじるのことも神様の支配の中でした。
(7-10節)
しかし、彼自身はそうとは思わず、彼の心もそうは考えない。
彼の心にあるのは、滅ぼすこと、多くの国々を断ち滅ぼすことだ。なぜなら、彼はこう思っている。「私の高官たちはみな、王ではないか。(…中略…)エルサレム、サマリヤにまさる刻んだ像を持つ偽りの神々の王国を私が手に入れたように、 (…中略…)エルサレムとその多くの偶像にも私が同じようにしないだろうか。」と。
神様はアッシリヤを使ってエルサレムをさばきますが、そのアッシリヤもやがて神様に裁かれます。
(12-13節)
主はシオンの山、エルサレムで、ご自分のすべてのわざを成し遂げられるとき、アッシリヤの王の高慢の実、その誇らしげな高ぶりを罰する。それは、彼がこう言ったからである。「私は自分の手の力でやった。私の知恵でやった。私は賢いからだ。私が、国々の民の境を除き、彼らのたくわえを奪い、全能者のように、住民をおとしめた。
(16-18節)
それゆえ、万軍の主、主は、その最もがんじょうな者たちのうちにやつれを送り、その栄光のもとで、火が燃えるように、それを燃やしてしまう。イスラエルの光は火となり、その聖なる方は炎となる。
燃え上がって、そのいばらとおどろを一日のうちになめ尽くす。
主はその美しい林も、果樹園も、また、たましいも、からだも滅ぼし尽くす。
それは病人がやせ衰えるようになる。
イスラエル人たちはアッシリヤの攻撃が神様からの罰だと知り、悔い改めて神様に戻る人が現れます。…ですがそれも一部の人だけです。
(20-23節)
その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家ののがれた者は、もう再び、自分を打つ者にたよらず、イスラエルの聖なる方、主に、まことをもって、たよる。残りの者、ヤコブの残りの者は、力ある神に立ち返る。
たとい、あなたの民イスラエルが海辺の砂のようであっても、その中の残りの者だけが立ち返る。壊滅は定められており、義があふれようとしている。
すでに定められた全滅を、万軍の神、主が、全世界のただ中で行なおうとしておられるからだ。
神様の怒りと罰を受けても悔い改める人は一部でした。ですが少数であっても神様に戻った人は解放されます。
(25-27節)
もうしばらくすれば、憤りは終わり、わたしの怒りが彼らを滅ぼしてしまうから。(…中略…)その日になると、彼の重荷はあなたの肩から、彼のくびきはあなたの首から除かれる。くびきはあなたの肩からもぎ取られる。」
僕らに起こる上手くいかないこと、悲しい出来事は僕ら単純に良い悪いを判断する以上の神様のご計画があります。そのご計画は僕ら神様を第一にするためです。僕らが神様よりも優先し頼り愛する物や人がいるなら、神様への裏切りであり、浮気のようです。神様は僕らを愛しているゆえにそれを放っておきません。僕らを叱り、浮気行為を責めます。
この苦しみを通して悔い改めた人たちは、お金や軍事力でなく、神様を第一に求めるようになりました。
(20節)
イスラエルの残りの者、ヤコブの家ののがれた者は、もう再び、自分を打つ者にたよらず、イスラエルの聖なる方、主に、まことをもって、たよる。
クリスチャンは神様が愛する妻であり、愛する子どもだと聖書は言います。ところが僕らが神様より●●の方を優先するとか、他を愛するとか、他の方が信頼できるとか思うなら、それは神様への侮辱であり、神様の怒りを引き起こすものです。神様の怒りは僕らを愛しているからです。
神様のなさることは僕らの善悪判断を圧倒的に超えています。僕らが思う以上に神様の愛のご計画があります。簡単には良い悪いが判断できないほどに高く、深い神様です。
(ローマ 8:28)
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
僕らの重荷や苦しみの中に神様の愛のご計画が必ずあります。高ぶらず、神様に戻り、神様を第一としましょう。神様は僕らを見放していません。全てのことは圧倒的な祝福のご計画の中にあります。
(哀歌 3:27-33)
人が、若い時に、くびきを負うのは良い。
それを負わされたなら、ひとり黙ってすわっているがよい。
(…中略…)自分を打つ者に頬を与え、十分そしりを受けよ。
主は、いつまでも見放してはおられない。
たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。
主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。
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