神様から離れることは「ねたみ」「争い」という形にハッキリ現れます。「ねたみ」は「高ぶり」でもあります。
サウル王は神様から離れて高ぶりました。サウル王は自分よりもダビデの方が愛され、ほめられていることをねたみます。
(6-8節)
6皆が戻り、ダビデがあのペリシテ人を討ち取って帰って来たとき、女たちは、イスラエルのすべての町から、タンバリンや三弦の琴をもって、喜びつつ、歌い踊りながら出て来て、サウル王を迎えた。7女たちは、笑いながら歌い交わした。「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った。」8サウルは、このことばを聞いて激しく怒り、不機嫌になって言った。「ダビデには万と言い、私には千と言う。あれにないのは王位だけだ。」
自分の栄光を求めて高ぶることから妬みが始まります。サウルはダビデをねたみ、何度も殺そうとします。
(10-11節)
10その翌日、わざわいをもたらす、神の霊がサウルに激しく下り、彼は家の中で狂いわめいた。ダビデはいつものように竪琴を手にして弾いたが、サウルの手には槍があった。
11サウルは槍を投げつけた。ダビデを壁に突き刺してやろうと思ったのである。ダビデはサウルの攻撃から二度も身をかわした。
高ぶりとは反対に、神様の御霊を受けた人は謙遜にさせられます。ダビデはサウル王に二度も殺されかけながら、その王にお仕えします。御霊とはイエス様の霊であり謙遜の霊です。御霊が与えられた人はイエス様のご性格に似てきます。
ダビデは妬まれて殺されそうになっているにも関わらず、王様にお仕えし続けます。これはまさに御霊の現れです。ダビデはまるでしもべのように率先して戦い、行動し、神様と人に仕えました。
(13-14節)
13ダビデは兵の先に立って行動した。14主が彼とともにおられたので、ダビデは、行くところどこででも勝利を収めた。
(16節)
16イスラエルもユダも、皆がダビデを愛した。彼が彼らの先に立って行動したからである。
高ぶるサウル王とへりくだるダビデは真逆です。聖書が教えるリーダーとはまず自分がしもべとなって先に行動する人です。
(マタイ 20:26-27)
あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。
僕らがいつも聖霊によってしもべとなりますように。高ぶりや妬みでなく、謙遜さが与えられますように。自分を殺そうとする人を愛して仕えるのは、十字架の上で敵をゆるし愛してくださったイエス様だけしかできないことです。そのイエス様の御霊は僕らにも与えられています。僕らが今日も敵をゆるし、愛し、率先して仕える者とされますように。
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