2023年2月1日水曜日

1サムエル20.24-42

 人を愛することは犠牲を払うことです神様からの愛は友のために苦しみ、自分の立場を失い、殺されるまで誠実です。この愛は人からは出ません。しかし、聖霊を与えられた人はこの愛が与えられます。ヨナタンは聖霊によって親友ダビデを愛することで自分も殺されそうになります。


(27-28節)

27しかし、その翌日、新月祭の二日目にも、ダビデの席は空いていた。サウルは息子のヨナタンに言った。「どうしてエッサイの子(ダビデのこと。貧しいエッサイの子ども、と言ってバカにしている言い方です。)は、昨日も今日も食事に来なかったのか。」28ヨナタンはサウルに答えた。「ベツレヘムへ行かせてくれと、ダビデが私にしきりに頼みました。


ヨナタンは父サウルの殺意を確認するため「ダビデはベツレヘムの親戚に呼ばれて行った」と嘘を付きます。サウルは怒りダビデへの殺意がはっきりします。そしてその怒りはヨナタンにも向かいます。ヨナタンがダビデの味方をしているからです


(30-33節)

30サウルはヨナタンに怒りを燃やして言った。「この邪悪な気まぐれ女の息子め。おまえがエッサイの子に肩入れし、自分を辱め、母親の裸の恥をさらしているのを、この私が知らないとでも思っているのか。31エッサイの子がこの地上に生きているかぎり、おまえも、おまえの王位も確立されないのだ。今、人を遣わして、あれを私のところに連れて来い。あれは死に値する。」


ヨナタンはダビデをかばいます。それゆえに、ダビデと同じように槍で刺されそうになります。愛することは一緒に苦しむことです


(32-33節)

32ヨナタンは父サウルに答えて言った。「なぜ、彼は殺されなければならないのですか。何をしたというのですか。」33すると、サウルは槍をヨナタンに投げつけて撃ち殺そうとした。


僕らは「愛している」と口では言ってもいざとなったら自分の立場やメンツを優先し、相手を切り捨てるような弱いものです

例えば使徒ペテロはイエス様が逮捕された時にはあっさりと「あんな男は知らない」と言って自分を守りました。友より自分、愛より保身、真実より損得で考えてしまうのが人間の本性ですでも、神様の愛は違います。真実に愛するために一緒に悲しみ、一緒に重荷を負い、一緒に嫌われる側になってくださいます。ヨナタンとダビデの間にはこの神様からの愛がありました。

ヨナタンはダビデのことを自分のことのように悲しみ、自分も食事の席から退席しました。


(34節)

34ヨナタンは怒りに燃えて食卓から立ち上がり、新月祭の二日目には食事をとらなかった。父がダビデを侮辱したので、ダビデのために悲しんだからである。


イエス様は僕らの悲しみや苦しみに連帯するために天から地に下ってくださった方ですイエス様は傷つかないでラクな立場で居続ける方ではありません。


(ヘブル 4:15)

私たちの大祭司(イエス様)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです


同じように、僕らも人を愛することはその悲しみや痛みに連帯することですまた、僕らがイエス様を愛することは、イエス様のために苦しむことでもあります。イエス様のための悲しみはイエス様を深く知りことになり、神様に喜ばれます。


(1ペテロ 4:12-14)

愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためですもしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです


神と人を愛することは犠牲を払い、痛みを共有することですヨナタンはダビデと一緒に苦しみ悲しむことでますます2人の愛は深まりました。


(41節)

子どもが行くと、ダビデは南側から出て来て地にひれ伏し、三度礼をした。二人は口づけし、抱き合って泣いた。ダビデはいっそう激しく泣いた。


今日の僕らの苦しみが、自己保身ではなく、真実に神様と人を愛するものでありますように。僕らからはこの愛は出ませんが、御霊が神様の愛を僕らの内側に注いてくださっています。(ローマ 5:5)


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