僕らは人の目が気になり、人から良く思われたいと思います。
38 イエスはその教えの中でこう言われた。「
39 また会堂の上席や、宴会の上座が大好きです。
40 また、やもめの家を食いつぶし、 見えを飾るために長い祈りをします。 こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」
律法学者たちも、 聖書を学びはじめの頃は純粋だったかもしれません。 神様のことをもっと知りたい、従いたい、 と思って献身したかもしれません。ところがいつの間にか、 人からどう思われるか、人からどう扱われているかを第一に求め、 聖書の学びさえ自分の栄光や地位を求めるための道具になってしま いました。
「長い衣」 は神様のことを思い出すために与えられた独特のデザインです。( 民数記15.38)ところが、その服さえも、 自分の権威を表すための服になってしまいました。 広場では挨拶されることを求め、会堂では上席、 宴会では上座に座ることを望むようになり、 他の人より上に置かれることが大事なこととなりました。 やがては自分よりも弱い立場にある人を自分のために利用するよう になり、その一方で敬虔なフリをし続けます。 彼らは人に見せるため、熱心でしょう、 と思われるための長い祈りをしました。
僕らも自分に聞いてみましょう。 本当に求めているのは神様でしょうか。 それとも自分の地位や身分でしょうか。 人からの賞賛や評価でしょうか。 僕らの関心が神様ではなく人に移っていくことがあります。 その時に2つの症状が出ます。
1、見栄をはる。(律法学者のパターン)
2、自分は役にたたない、価値がない、と思う。
2、自分は役にたたない、価値がない、と思う。
2の「私なんて何の役にも立たない」「私なんて能力がない、 経験がない、お金がない」などと思うのも神様から人に(自分に) 関心が移っている症状です。 それはまさに神様の目でなく自己評価が中心になっています。
神様は見ておられます。 人が思う業績や力や結果は問題ではありません。 問題はそこに心があったかどうかです。行いが大きいか小さいか、 献金が大きいか小さいかを神様は見ていません。 自分がどう思うか、人がどう思うかではなく、 神様がどのように見ておられるかが大事です。
41 それから、イエスは献金箱に向かってすわり、
42 そこへひとりの貧しいやもめが来て、 レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。
43 すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「 まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、 献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。
44 みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、 乏しい中から、あるだけを全部、 生活費の全部を投げ入れたからです。」
貧しいやもめが献金したレプタ銅貨2枚、1コドラントとは、 一日の日当の1/64だそうです。今の価値なら、 もし日当6400円の人なら100円です。 もし日当12800円の人ならは200円分のお金です。
その人はこのお金を神様にささげ、 おそらくその日の食事は食べられなくなりました。
その人はこのお金を神様にささげ、
でも、彼女には神様への感謝と献身がありました。 お金もちがささげた大金は「余ったもの」でした。しかし、 この女のお金は必要な全額でした。 彼女は自分の持っているすべてで神様への感謝と献身を表しました 。
問題は金額の大小ではありません。 上手にできるかどうかではありません。 心から神様を本当に第一に求めているかどうかです。 人はうわべを見ますが主は心を見ておられます。(旧約聖書 1サムエル16:7)
今日、僕らが生きるのは人の前ではなく神様の前です。
神様に喜ばれる生き方を選びましょう。 人からほめられなくても大丈夫です。神様は心を見ておられます。
今日、僕らが生きるのは人の前ではなく神様の前です。
神様に喜ばれる生き方を選びましょう。
38 「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、 長い衣をまとって歩き回ったり、 広場であいさつされたりすることが大好きで、
39 また会堂の上席や、宴会の上座が大好きです。
40 また、やもめの家を食いつぶし、 見えを飾るために長い祈りをします。 こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」
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