僕らはいつも自分は正しくて他人は悪い、と判断しがちです。神様は「善悪の知識の木の実」を食べてはならないとおっしゃいました。(創世記2.17)善悪の判断は神様の特権です。だのに人間はその特権を横取りし、今だに「私の判断は正しい」と思っています。そして悪いのはいつも「人のせい」です。預言者サムエルはサウル王に「なぜ主の御声に聞き従わないのか」と質問しますが、この時もサウル王は「私は聞き従った」「兵たちが悪い」と言います。自分で善悪判断を握りしめていることがわかります。
(19-21節)
19なぜ、あなたは主の御声に聞き従わず、分捕り物に飛びかかり、主の目に悪であることを行ったのですか。」20サウルはサムエルに答えた。「私は、主の御声に聞き従い、主が私に授けられた使命の道を進みました。私はアマレク人の王アガグを連れて来て、アマレク人たちは聖絶しました。21兵たちは、ギルガルであなたの神、主にいけにえを献げるために、聖絶の物の中の最上のものとして、分捕り物の中から羊と牛を取ったのです。」
サウルは神様に従わなかった理由を言い、自分の善悪が正しいと主張します。動物を聖絶しなかった理由は「主にいけにえを捧げるためにとっておいたから」です。神様のためにと儀式をするのだから多少従わなくてもいいでしょう、という理屈です。それに対して預言者サムエルは言います。
(22-23節)
22サムエルは言った。「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。23 従わないことは占いの罪、高慢は偶像礼拝の悪。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」
神様が僕ら人間に求めているのは儀式ではなく、誠実さです。神様が求めておられるのは立派な儀式とか献金とか奉仕ではありません。神様を愛し、神様に誠実に従うことは、どんな儀式よりも喜ばれます。僕らがどんなに立派な礼拝をしたとしても、聖書の知識を増やしても、神様に従うつもりがなければ無意味です。それは占いの罪、偶像礼拝の罪とさえ言われています。サウル王にとって神様を礼拝することは自分のメンツを立てるため、自分を正当化するためだったようです。
神様から離れた人は、神様からの評価ではなく、他人からの評価が全てになってしまいます。自分が好かれること、栄光を受けることが第一です。逆に嫌われることを恐れます。サウル王は「兵たちを恐れて」神様に従いませんでした。彼は罪を指摘された後でも「私のメンツを立ててください」と願い続けます。神様より自分の評価が第一になってしまっているのがわかります。
(24-25節)
24サウルはサムエルに言った。「私は罪を犯しました。兵たちを恐れて、彼らの声に聞き従い、主の命令と、あなたのことばに背いたからです。25どうか今、私の罪を見逃してください。そして、私が主を礼拝することができるように、一緒に帰ってください。」
(30節)
30サウルは言った。「私は罪を犯しました。しかし、どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私を立ててください。どうか一緒に帰ってください。私はあなたの神、主を礼拝します。」
自分の正しさや自分の栄光を求めることは高ぶり、高慢です。そして「高慢は偶像礼拝の悪」です。その結果、神様とも隣人とも愛と信頼関係が壊れてしまいます。イエス様は「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」とおっしゃいました。(ルカ14.11)
僕らが恐れるべきは神様だけです。そして、栄光を受ける方は主のみです。善悪判断は手放してお返ししましょう。栄光も手放してお返ししましょう。僕らのものではありません。全ては主のものです。ハレルヤ!
(詩篇 115:1)
私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。
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