2023年2月16日木曜日

2コリント4.16-5.11

 僕らはいつか死にます。聖書によると「死」は本来の姿でも自然なことでもありません。いのちの源である神様から離れた結果です。創世記を読むと、人が死ぬようになったのは、人が神様の命令に背いた時からでした。創世記1-2章によると、神様のお造りになった世界には老化も衰えもなく、全てが祝福されすべては良かったと書かれています。もちろん死も悲しみもありませんでした。ところが、人間はいのちそのものである神様から離れました。神様から離れることはいのちから離れて行くことですだんだん力をなくして命を失い死んで行くのが人間の姿になりました。本当はすばらしく美しく、永遠に生きる人として作られているのに、です罪とは神様から離れることです


(ローマ 3:23) 

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉(神様に似せて作られた人としての永遠の栄誉)を受けることができず、


(ローマ 6:23) 

罪から来る報酬は死です


どんなに儲かっても、どんなに人生が順調で繁栄しても、人は死にます。死ぬことは神様のさばきです蓄えた財産も評判も消えていきます。イエス様は言われました。


(ルカ 12:16-20)

ある金持ちの畑が豊作であった。(…中略…)そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』


そのように、罪を犯して神様から離れて死んで行くだけの人間に、神様はもう一度いのちを与えてくださいました。


(ヨハネ 5:24) 

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです



僕らは全員死にます。聖書は弱く死んで行く肉体のことを仮住まいの幕屋(テント)のようだと言います。そして、死後にすばらしい体が与えられると言います。そのことをテントとは違う、「永遠の家」のようだと書いています。



1 私たちの住まいである地上の幕屋(仮住まいのテントのこと)がこわれても、神の下さる建物(栄光の天のからだのこと)があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です

2 私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。

3 それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです

4 確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです


僕らにはこの希望があります。イエス様を信じることは、イエス様と同じように死後の復活が約束されていることですそして、イエス様を信じることは、イエス様と同じように苦しみを受け、迫害され、死を経験することです聖書は僕らの人生に苦しみがあるとハッキリと書いています。でも、それは一時的です。イエス様と一緒に苦しみ、そしてイエス様のように完全な栄光の体に変えられるのが聖書の教です


(2コリント 4:8)

私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。

(2コリント 4:14)

それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです

(2コリント 4:18)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです


今日も苦しみがあり、病気があり、不自由さがあるかもしれません。でも、それは一時的ですイエス様のために、イエス様と一緒に苦しむなら、その先にはイエス様と一緒の復活と栄光があります。これを信じるの信仰です。今の苦しみと、その先の栄光では比べ物にならないくらいの差があるようです将来の栄光から見ると、今の苦しみは小さなことです


(2コリント 4:17)

今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです


5.6 そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。

7 確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。

8 私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。てではなく、信仰によって歩んでいます。


地上の体が全てなら、僕らは延命しようとがんばります。でも、死んでいくからだをいくら延命しても意味がありません。それよりも聖書は「主のみもとにいるほうがよい」と言います。(8節)それは僕らの想像を超えた栄光の、しかも永遠の姿だからです。(4.17)僕らはすばらしい復活のからだ、栄光のからだが約束されています。死ぬことは、種が地中で死んで新しい芽を出すかのようです。(1コリント15章)新しく生まれ、主と一緒にいる方がはるかに良いことです。もし、イエス様を信じたことで地上で苦しむなら、それは喜ばれ、永遠の宝となることです。今日、主に喜ばれることを求めましょう。その選択は永遠のいのちつながる選択です


9 そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです

10 なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるかです


主のみもとで過ごすことこそが本来の僕らの居場所であり、本来の姿です。今日の苦しみは一時的です永遠の祝福は約束されています。希望をもって忍耐しましょう。死んで行く人生が基準ではなく、永遠の祝福を基準にして忍耐しましょう。忍耐とは、希望を持ってイエス様と一緒に苦しみ、イエス様と一緒に喜ぶことです主のみもとにいる方が良いのです。将来は希望に満ちています。ハレルヤ!

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