イスラエル人たちは昔、エジプトの奴隷として酷使されていました。神様はそんなエジプトの家、全世帯にさばきを与えました。そのさばきとは、「全世帯の長男を殺す」というものでした。
神様がエジプト中の家にさばきを与えたとき、イスラエル人たちだけはさばかれないために、身代わりに羊を殺すように言われました。信じて身代わりに羊を殺したイスラエル人たちは助かりました。神様はこれを忘れないように、毎年「過ぎ超しの祭り」をするように言われました。
身代わりに羊が殺され、それによって神様のさばきが過ぎ越されて助かることは、イエス様が身代わりに殺され、それを信じる人に神様のさばきが過ぎ越されることを現しています。イエス様が身代わりに殺される羊であることは、聖書が何度も言っていることです。
預言者であるバプテスマのヨハネは言いました。
(ヨハネ 1:29)
その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
(ヘブル 9:26)
キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。
イエス様は十字架で処刑を受ける前の日、過ぎ超しの食事の時に言われました。
22 それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」
23 また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。
24 イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」
この時裂いて食べたパンは、イエス様が裂かれ、殺されることを意味していました。また、この時、一緒に飲んだワインはイエス様が血を流して殺され、その血によって人々は赦されるという新しい約束(神様との契約)を現していました。
これを記念して今でも教会ではパンを裂いて分け合い、杯を飲んでイエス様の身代わりの死と罪の赦しを記念しています。
(1コリント 11:26)
あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。
イエス様が殺されることは、想像を超えた痛みと苦しみです。体の痛みも激しいものですが、それ以上に愛する弟子から裏切られ、売られるのは最大の苦しみです。
18 そして、みなが席に着いて、食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりで、わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります。」
19 弟子たちは悲しくなって、「まさか私ではないでしょう。」とかわるがわるイエスに言いだした。
20 イエスは言われた。「この十二人の中のひとりで、わたしといっしょに、同じ鉢にパンを浸している者です。
21 確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」
イエス様の犠牲は僕らの想像を超えています。
特に愛する人の裏切りは残酷です。
イエス様は人間としての苦しみ、不当な扱いのどん底を味わってくださいました。
僕らも悩みや苦しみを経験します。そして苦しんだり裏切られることはイエス様の足跡に従うものです。
(1ペテロ 2:19-21)
人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。
(…中略…)善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。
僕らの苦しみは、イエス様の苦しみをほんの少しだけ共有させて頂くものです。
(ピリピ 1:29)
あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。
今日、不当な苦しみに合う時、イエス様につながってると思いましょう。
今日、人から裏切られたと思うなら、イエス様につながってると思いましょう。
教会ではイエス様の苦しみと犠牲を思い出すために、パンを裂きます。
また、イエス様が僕らを完全に赦してくださったという契約を思い出すために、杯を飲みます。
今日も、信じる人はイエス様に連帯しています。赦しや喜びや平安に連帯しています。また苦しみにも連帯しています。
苦しむ時はイエス様を思い出しましょう。そして赦しを思い出しましょう。主は今日も一緒です。
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