今日は召天者記念礼拝。午後から八森さんの納骨と墓前で召天者記念会をします。
●死んだ人はどうなるのか?
というのはお墓の前にいくと良く聞く質問です。死んだらどうなるの?という質問に聖書は明らかに答えています。
(ダニエル 12:2)
地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。
ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。
(へブル人への手紙9章27節)
人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている
聖書は明らかに死んだあと、人間は神様の前に立ち、さばきを受けると言っています。
聖書によると輪廻はなく、一度だけの人生です。そして正しい人もそうでない人もすべての人が神様の前に復活してさばきを受けます。
さて、死後のさばきがあるとしたら、大変です。質問です。
●※皆さんが今日、地上の人生を終えて神様の前に立つなら、神様に何と言われるでしょうか?
聖なる永遠のいのち、完全な神様の国には罪も汚れもない国です。そこに皆さんは入れるでしょうか?
聖書が教えている一番大事なことはこの答えです。その答えは2つあります。
1、すべての人には罪があります。罪に対する神の怒りと呪いがあります。
2、神様はすべての人を赦し、きよめて永遠の祝福に招いています。
1、の説明
罪のないひとはいません。聖書はひとりもいないとハッキリ言っています。
そして、その罪に対する神様の怒りと呪いはあります。
罪とは、神様から離れるという意味です。人間はみんな神様から離れたがり、自分が中心で神様を軽んじ、神様を無視し、人を大事にしない。これが僕らすべての人の現実です。罪とは神様への裏切りです。この世を支配し、死後のさばきをする神様より他のものがいい、ということです。ひとときの快楽を選ぶのが人間の愚かさです。浮気、裏切りのように神様を裏切り無視し、悲しませ、怒らせています。このさばきは必ずあります。創世記を読むと、罪のない世界には老いることも死ぬこともなかったことがわかります。だから、人間が年をとって力を失って死んで行くのは神様のさばきです。
(ローマ 2:5-8)
ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。
(…中略…)真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。
2、の説明
神様はそれでも愛しています。
罪があり、神様を裏切り、悲しませ怒らせる僕らを神様はそれでも赦し愛し受け入れようとされています。
赦しはプレゼントです。聖書で最も大事なこととして伝えています。
罪があるのにイエス様がその責任をとって神様から怒りを受け殺され、呪われてくださいました。
(1コリント 15:3-4)
私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
罪は赦されます。聖なる人と言われます。どんなにヒドい人生であっても赦され、きよめられ、永遠のいのちに入ることができます。これが聖書が伝えている一番大事なことです。私たちの罪のために、その責任をとるために、イエス様が神の怒りと呪いを受けて死んでくださいました。しかも、イエス様は死んでおわらず、復活して今も生きておられます。
イエス様を信じることは、イエス様と一緒になる、という意味です。
イエス様は十字架で神様からののろいを受けてくださったので、僕らも、もうその呪いと罰は受けて終わった、と見なされる。
そして、イエス様はお墓から復活し、栄光のからだに変えられ、今も生きておられる。だから、イエスさまを信じた人も、一度死ぬけども、神様のさばきは受けないで、栄光のからだに復活します。
2コリント 4:14 それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。
死んだらどうなるの?神様の前に立つ時、どうなるか?
答えは、イエス様の十字架の犠牲によって赦され、新しい命、新しいからだに復活し、その喜びと祝福は永遠です。
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●死後に主と共にいる喜びは今もはじまっています。
聖書は希望を伝えています。
死んだ後は将来は完全な体に変えられる、というのが5.1-4です。
1 私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。
2コリント 5:2 私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。
2コリント 5:3 それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。
2コリント 5:4 確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。
確かに今は苦しんでいるけど、将来は新しいからだ、完全あ、栄光のからだに変えられます。
しかも、その喜びは今もスタートしています。
2コリント 4:16 ですから、私たちは落胆しません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
今は弱いからだで、しかも、毎年体は衰えていくけど、しかも、回りは罪とトラブルにまみれたこの世界でうめいている。それでも、僕らの内側の人、つまり、イエス様とつながったたましいは毎日新しく成長しています。体は年を取るのに、たましいは毎年若返り、本来のすがたをとりもどすように新たにされている。これがイエス様を信じた人の特徴です。今は苦しんでいる。でも、その苦しみは将来の祝福と栄光が約束された苦しみなので、忍耐できる。という種類です。出口がない苦しみではない。
コリント 4:17 私たちのひと時の軽い苦難は、それとは比べ物にならないほど重い永遠の栄光を私たちにもたらすのです。
2コリント 4:18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。
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がっかりしすぎる人は、見ているものが見えるものばかり。当たり前ですが、目の前のことや周りのこと、そして勝手な妄想や悪い想像ばかりを考えて落ち込んでいる。聖書は、神様のことばに目を留めるように押している。自分の妄想ではなく、真理のことば、神様のことばに目をとめるようにと教えています。これは、僕もいつも練習中です。落ち込ませることななら山ほどある。
でも、神様のことばを読み、聞き、考え、祈り感謝するときに、目線が天にむく。そのときに、僕らは苦しみはあるけど、それ以上に希望と平安が僕らを包みます。
2コリント 4:18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。
2コリント 5:7 確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。
見えることばかり考えて、あの人がどうだこうだ、お金がどうだこうだ、ではなく、イエス様を信頼し、神様のことばによって歩ようにと聖書は教えます。
信仰とは、イエス様のことばを聞くことによって与えられるものです。
イエス様を信じたら苦しみがなくなる、とは聖書は教えていません。地上の苦しみが罪のための苦しみではなく、イエス様に従うため、イエス様を愛するためのくるしみなら、なおさら天で喜ばれ、祝福される苦しみです。
コリント 4:17 私たちのひと時の軽い苦難は、それとは比べ物にならないほど重い永遠の栄光を私たちにもたらすのです。
文脈では、この苦しみは、イエス様のための苦しみ。
(マタイ 5:11-12)
わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。
聖書を知らなければ、苦しみはただの苦しみ。だけど、イエス様を信じ、イエス様に従う人は、苦しみはイエス様と一緒の、しかも、イエス様のための苦しみになる。それは天で圧倒的に尊いことだし、すばらしい栄光を手にすることです。だから苦しいけど、喜びなさい、という。スポーツ選手が苦しんで練習するけど、それによって必ず勝てるようになるのと同じ。
スポーツなら、練習して苦しんでも勝てる保証はない。でも、イエス様のための苦しみは確実に栄光をもたらします。聖書はそう言っています。
コリント 4:17 私たちのひと時の軽い苦難は、それとは比べ物にならないほど重い永遠の栄光を私たちにもたらすのです。
今は、苦しいし、直接主と顔と顔を合わせているのではない。でも、将来の約束は確実です。だからこころづよいのです。
6 そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。
2コリント 5:7 確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。
(マタイ 5:11-12)
わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。
●まとめ
死後、どうなるのか。
それは主のみもとにいる喜びと祝福で満たされます。主のみもとにいる方がよいのです。
2コリント 5:8 私たちは心強いのですが、そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとに住むほうがよいと思っています。
喜びは今すでにはじまってる。
4.16-18読む
2コリント 5:9 そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。
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