聖書が伝えているのは「福音」(良い知らせ)です。それは神様があなたの罪を赦してくださった、というメッセージです。信じる人は、罪人だった昔の人は死に、今はイエス様によって新しく生まれました。これが「福音」(良い知らせ)です。
聖書は信じる人のことを「その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」と言います。(2コリント5.17)
でも、実際の生活ではクリスチャンも罪をしてしまいます。まるで地上の人生は工事中のようです。ゴールは完璧な聖なる人です。聖書は罪をやめるように何度も僕らに勧めています。
1 愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。
パウロはコリント教会の人たちにかなり厳しく手紙で罪を注意しました。罪をしていたのは一部の人だけど、でも、それを読んだ教会の人たちは自分たち全員のこととして悲しんだようです。しかもただ悲しむだけではなく、その手紙に従って行動し、教会全体のこととして実際に対応しました。パウロはそれをすごく喜んでいます。
8 あの手紙によってあなたがたを悲しませたけれども、私はそれを悔いていません。あの手紙がしばらくの間であったにしろあなたがたを悲しませたのを見て、悔いたけれども、
9 今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。
10 神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。
罪を認めて神様に謝ると、完全な赦しと救いが与えられます。これが「悔いのない、救いに至る悔い改め」です。(10)「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(1ヨハネ1.7)と聖書は言います。もし、この福音がなければ、罪を指摘されても恥と悲しみで終わってしまいます。そのことを「世の悲しみは死をもたらします。」(10)と聖書は言います。
僕らが「神様、ごめんなさい」と告白して謝ることができるのは、完璧な赦しときよめがあるからです。悲しんで神様に謝ると、その重荷も恥も取り去られます。「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」とイエス様が言ってくださいます。(ヘブル10.17)
僕らの周りには罪が満ちています。教会はキリストの体だと聖書は言います。一部の人の罪は体全体の問題です。だから、関係ないと言わずに自分のこととして一緒に謝りましょう。イエス様は罪のない方なのにまるで自分のこととして十字架で苦しんでくださいました。僕らはイエス様に連帯しています。子どもが悪いことをした時に親が一緒に謝りに行くように、教会の一人一人は互いに連帯しています。罪は誰の罪であっても悲しみましょう。関係ないと言わず、自分のこととして一緒に告白し神様に謝りましょう。そして、罪をやめるようにお互いに愛し合いつつ注意しましょう。その先には喜びと回復があります。イエス様による「福音」(良い知らせ)は今日も完璧です!
9 今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。
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