2023年2月15日水曜日

箴言9章

 イエス様は「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」とおっしゃいました。(マタイ9.13)イエス様はいつも罪人を招いて一緒に食卓を囲んでいました。「取税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。」とあります。(マルコ2.15など)当時、レストランはありません。食卓を囲むことはその人の家に滞在することで、彼の大親友、家族、身内であることのしるしでした。イエス様は罪人を、わきまえのない人を招いてくださっています。箴言でも神様が愚かな人、わきまえのない人を愛し、招き、しかも、罪を捨てて歩むようにと言ってくださっていることがわかります。



4 「わきまえのない者はだれでも、ここに来なさい。」と。また、思慮に欠けた者に言う。

5 「わたしの食事を食べに来なさい。わたしの混ぜ合わせたぶどう酒を飲み、

6 わきまえのないことを捨てて、生きなさい。悟りのある道を、まっすぐ歩みなさい。」と。



神様は声をかけてくださいます。そして食事でもてなしてくださるだけでなく、「わきまえのないことを捨てて、生きなさい。悟りのある道を、まっすぐ歩みなさい」と言われます。

一見似ているのですが、悪い女も神様と全く同じセリフで声をかけます。わきまえのない人たちや思慮のないひとを招き、もてなします。


16 「わきまえのない者はだれでもここに来なさい。」と。また思慮に欠けた者に向かって、彼女は言う。

17 「盗んだ水は甘く、こっそり食べる食べ物はうまい。」と。



両者は一見同じに見えます。罪人を受け入れ、愛し、声をかけ、もてなしてくれる点は同じです。でも、次が全然違います。罪をやめるように教えてくれるか、逆に罪をするように教えるか、です。悪い女は「盗んだ水は甘く、こっそり食べる食べ物はうまい。」と教えます。僕らは声をかけてくれる人が神様からの招きなのか、悪の誘いなのか見分ける必要があります。本物の知恵は神様を恐れることです


10 主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。


神様は聖なる方です。神様は罪人を招いてくださいますが、罪を嫌い、罪と交わることのない聖なる方です罪を離れるように教える人が正解です聖なる神様が愚かな僕らを食卓に招いてくださっています。招きと赦しにはイエス様の犠牲があります。

罪人を愛し、招く神様の知恵は自分の家をきちんと治め、自分で食卓を整えています。


1 知恵は自分の家を建て、七つの柱を据え、

2 いけにえをほふり、ぶどう酒に混ぜ物をし、その食卓も整え、

3 小娘にことづけて、町の高い所で告げさせた。


罪人を招くイエス様はご自分が犠牲となって赦し、受け入れ体制を整えてくださいました。一方悪い女の招きは他人を犠牲にし、食い物にし、利用して殺すためですイエス様は今日も招いてくださっています。そこにはイエス様ご自身の十字架の犠牲があります。僕らはやがてイエス様と一緒に顔を合わせて食卓につきます。それはイエス様の十字架の犠牲があってこそです

僕らはイエス様に招かれています。イエス様は僕らを家族として、親友として、受け入れてくださっています。


(黙示録 3:20)

見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。


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