神様は全てのことに満ちていて、神様に足りないものは何もありません。人は誰も知らないこの世界の成り立ちや仕組みを神様だけが知っておられます。この世界をお作りになった時、一緒にイエス様もおられました。神様と一緒にこの世界を造ったはイエス様です。ここでは「わたし」と表現されています。
27 神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれたとき、わたしはそこにいた。
28 神が上のほうに大空を固め、深淵の源を堅く定め、
29 海にその境界を置き、水がその境を越えないようにし、地の基を定められたとき、
30 わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、
31 神の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。
神様の知恵によって造られたこの世界は喜びと楽しみに満ちています。世界は最初「見よ。それは非常によかった。」と書かれています。(創世記1.31)イエス様も「わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、神の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。」とあります。
今、世界は苦しみと悲しみが覆うようになってます。これは本来の姿ではなく、人間が神様を無視し自分の力や知恵を過信した結果です。罪とは高ぶりであり神様を無視することです。
人間が精一杯考えて神様の勝負するなんてムリだし愚かです。神様の知恵は僕らとは比べられません。まったく異次元の知恵です。だのに、人間は神様の無視します。その結果、喜びはなくなり、楽しみは消えていきます。その先は死です。
36 わたしを見失う者は自分自身をそこない、わたしを憎む者はみな、死を愛する。
今、僕らはもう一度神様の知恵を求めることができるようになりました。神様のことばは単なる音とか文字ではなく、いのちそのもの、出来事そのもにです。神様が「光よ。あれ。」と言われると光ができます。(創世記1.3など) つまり、神様のことばは出来事であり、力そのもの、いのちそのものです。この神様のことばを求める人はいのちを手にいれる人です。
32 子どもらよ。今、わたしに聞き従え。幸いなことよ。わたしの道を守る者は。
33 訓戒を聞いて知恵を得よ。これを無視してはならない。
34 幸いなことよ。日々わたしの戸口のかたわらで見張り、わたしの戸口の柱のわきで見守って、わたしの言うことを聞く人は。
35 なぜなら、わたしを見いだす者は、いのちを見いだし、主から恵みをいただくからだ。
36 わたしを見失う者は自分自身をそこない、わたしを憎む者はみな、死を愛する。」
今日も神様の近くにいて神様のことばを求める人は喜びます。神様のことばは喜びを与えることば、楽しみを与えることばです。イエス様が「わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、神の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。」とあるように、僕らも神様を求めるほどに、本来の姿を回復します。それはいのちと楽しみと喜びのある世界です。
神様から離れた世界は悲しみと苦しみに満ちています。でも、僕らが神様を求める時に、本来の喜びを回復しつつあります。やがて、それは完璧に回復します。今、すでに回復は始まっています。でも、まだ、完全ではありません。「すでに」と「いまだ」の間にいるのが僕らです。でも、明らかに回復に向かっています。聖書は僕らが住むべき喜びと楽しみの世界を教えてくださっています。未来は明るいです。ハレルヤ!
(黙示録 21:1-4)
また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。(…中略…)神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
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