僕の師匠である阿部牧師に言われたアドバイスが忘れられません。「遠藤さん、神様に仕えて批判されたり、悪く言われるならそれは良いことだよ。イエス様はいつもそうだったからね。人を愛して人に与えて、最後は十字架の処刑だったから。イエス様に従い、イエス様に仕えることは、人の上に立つことでないし、ほめられたり持ち上げられることではないよ」
そのようにイエス様がおっしゃいました。
(マタイ 20:25-28)
「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。
あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。
人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」
僕ら人間は権力を求め自分の栄光を求めたがります。
ギデオンは王権を持つことを拒否しましたが、その70人の息子の一人、アビメレクは王様になりたがります。彼の母はギデオンの正妻ではなかったようです。(士師記8.31)自分の母が正妻でないことはアビメレクにとっては劣った立場、人より低い身分だと思ったかもしれません。とにかく彼は権力を持ちたがり、人々に支持されることを求めます。彼は王様になるために、地元の人々にアピールします。そして人々の心は彼になびいていきます。
1 さて、エルバアル(ギデオンのこと)の子アビメレクは、シェケムにいる自分の母の身内の者たちのところに行き、彼らと母の一族の氏族全員に告げて言った。
2 「どうかシェケムのすべての者に、よく言って聞かせてください。エルバアル(ギデオン)の息子七十人がみなで、あなたがたを治めるのと、ただひとりがあなたがたを治めるのと、あなたがたにとって、どちらがよいか。私があなたがたの骨肉であることを思い起こしてください。」
3 (…中略…)彼らの心はアビメレクに傾いた。彼らは「彼は私たちの身内の者だ。」と思ったからである。
次にアビメレクは偶像の神殿のお金で殺し屋を雇い、自分以外の兄弟70人を殺します。そしてついに、人々の支持を得て彼は王様となります。
4 彼らはバアル・ベリテの宮から銀七十シェケルを取り出して彼に与えた。アビメレクはそれで、ごろつきの、ずうずうしい者たちを雇った。彼らはアビメレクのあとについた。
5 それから、アビメレクはオフラにある彼の父の家に行って、自分の兄弟であるエルバアル(ギデオン)の息子たち七十人を一つの石の上で殺した。しかし、エルバアルの末子ヨタムは隠れていたので生き残った。
6 それで、シェケムの者とベテ・ミロの者はみな集まり、出かけて行って、シェケムにある石の柱のそばの樫の木のところで、アビメレクを王とした。
アビメレクは悲願であった王様の座につきました。そのために70人の兄弟は殺しました。
何が彼をそこまで突き動かすのか、聖書ははっきりは言っていません。ただ、アビメレクは自分の身分や自分の境遇に満足していなかったことは事実です。激しい不満や不安のある人ほど解決するために、何かを手に入れようと必死になります。逆に神様に与えられた立場や境遇に感謝している人にはどんな立場であっても満足と平安があります。
この時、ギデオンの息子たちの中で唯一生き残った子「ヨタム」が言いました。彼はアビメレクを王様にした人々に呼びかけます。彼はたとえ話で呼びかけますが、彼が言っていることは「神様に与えられている場所や立場や役目で満足するすばらしさ」です。
7 彼は行って、ゲリジム山の頂上に立ち、声を張り上げ、彼らに叫んで言った。「シェケムの者たち。私に聞け。そうすれば神はあなたがたに聞いてくださろう。
8 木々が自分たちの王を立てて油をそそごうと出かけた。彼らはオリーブの木に言った。『私たちの王となってください。』
9 すると、オリーブの木は彼らに言った。『私は神と人とをあがめるために使われる私の油を捨て置いて、木々の上にそよぐために出かけなければならないだろうか。』(オリーブの木はオリーブオイルが神と人に用いられているので、それで満足しています。人の上に立つ王様になる必要はありません。)
10 ついで、木々はいちじくの木に言った。『来て、私たちの王となってください。』
11 しかし、いちじくの木は彼らに言った。『私は、私の甘みと私の良い実を捨て置いて、木々の上にそよぐために出かけなければならないだろうか。』(いちじくの木は甘い実を実らせることで満足しています。王様になる必要はありません。)
12 それから、木々はぶどうの木に言った。『来て、私たちの王となってください。』
13 しかし、ぶどうの木は彼らに言った。『私は、神と人とを喜ばせる私の新しいぶどう酒を捨て置いて、木々の上にそよぐために出かけなければならないだろうか。』(ぶどうの木はワインで人と神様に喜ばれています。王様になる必要はありません。)
いつも不安と不満の中にいて、そのために行動するのなら必ず行き詰まります。
不安解消のための依存で繋がる関係は壊れ、虚栄や高慢や支配欲つながりも壊れます。
今は人々はアビメレクを支持しているし、アビメレクも人々に良いことを言いますが、心の中は自分の思い通りになることばかりを求めています。人々とアビメレクの関係も悪くなるのは当然です。ヨタムは言いました。両者の関係は壊れます。そのことばの通りに彼らは裏切り合うようになりました。
20 アビメレクから火が出て、シェケムとベテ・ミロの者たち(今は支持している人たち)を食い尽くし、シェケムとベテ・ミロの者たちから火が出て、アビメレクを食い尽くそう。」(…中略…)
23 神は、アビメレクとシェケムの者たちの間に悪霊を送ったので、シェケムの者たちはアビメレクを裏切った。
カトリックのシスター渡辺和子さんは「置かれた場所で咲きなさい」という詩で救われたと言います。かつて彼女は「あの人がこうしてくれない、この人がこうしてくれない、あれがない、これがない」というような、「くれない病」だったそうです。いつも自分の境遇を不満に思い他人のせいにして行き詰まっていた彼女は、この詩に出会い、今与えられている環境や立場にも感謝し、自分が足りないことにも感謝する恵みに気がついたそうです。
神様に与えられた立場や境遇に感謝している人にはどんな立場であっても満足と平安があります。聖書は「今持っているもので満足しなさい」と言います。その理由は「わたし(神様)は決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」からです。(新約聖書ヘブル13.5)
偉くならなくても大丈夫です。人から批判されても大丈夫です。神様を愛し、人に仕え、与えられた場所で感謝しながら生きる「しもべ」の人生こそ祝福されたものです。イエス様がお手本です。どんな時にも神様は僕らを見放しません。威張らなくても、自慢しなくても、ねたまなくても大丈夫です。自慢や妬みや不満は神様の愛を忘れている証拠です。僕らは忘れても神様は忘れていません。今日も神様は離れていません。与えられている立場や預かっている能力や財産を感謝して使いましょう。あせらなくても大丈夫です。人から見下されても大丈夫です。神様は僕らを尊んでくださっています。今日も置かれた場所で精一杯感謝して咲きましょう。ハレルヤ!
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