2023年3月1日水曜日

イザヤ書56.1-8

 イザヤ書56.1-8

イザヤ書56章は55章の続きです(当たり前ですが…)。聖書を理解するときに大切なことは話の流れ、文脈です。つまみ食いのように、一部分だけ読んでも意味不明なことが多いです。
55章ではすべての人が欠乏感を持っていることが言われています。「乾いている者はみな、水を求めて出て来い」(55.1)とは、人間には心の渇き、魂の虚しさがあり、それを満たして潤すのは神様との関係だけです。神様のことばを聞き、神さmに語る、神様とのコミュニケーションは僕らを満たします。「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。」(55.3)とあります。
だのに、僕ら人間は神様以外に満たされようとし、みんな自分を幸せにしてくれる何かを求めています。それがむなしく、方向が間違っていると聖書はいいます。「なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか。わたしに聞き従い、良い物を食べよ。」(55.2)と書いています。
僕ら人間を祝福し満足させるのは神様との交わりです。そのことが56章で書かれています。
1 主はこう仰せられる。
「公正(神様の判断、ことばや教え)を守り(心に留め、見つめ、)、正義(神様とのまっすぐな関係)を行なえ。わたしの救いが来るのは近く、わたしの義が現われるのも近いからだ。」
僕ら人間は自分の考えでこうすればうまくいくとか、ああすれば幸せになれる…などと考えますが、55章では自分のプランを捨てよ、と言われています。なぜなら僕らのプランよりも神様のプランの方が確実だからです。
(イザヤ55.7-8)
悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。
主に帰れ。…中略…わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。
どんなにお金が儲かっても、それは消えていく霧のようなものです。
僕ら人間が考える満足は一時的ですが、神様の救いと祝福は永遠です。しかも、その永遠の救いは近い、と聖書は言います。
1 主はこう仰せられる。「公正を守り、正義を行なえ。わたしの救いが来るのは近く、わたしの義が現われるのも近いからだ。」
神様との関係を第一とすることこそが大正解だし、幸いであり喜びです。
2 幸いなことよ。(なんて幸いなんだろう!)
安息日を守ってこれを汚さず、どんな悪事にもその手を出さない、このように行なう人、これを堅く保つ人の子は。
「安息日」とは「神様のために仕事や用事をやめる日」という意味です。直訳では「ストップ」です。人間は「あれしなきゃ」「これしなきゃ」と思っています。人間が活動しないと食べていけない、休んだらお仕事がたまってしまう、と思っています。実はそれは神様をすごく小さく見ています。
神様は「人間よ、せっせと努力しないと、結果出し続けないと大変なことになるぞ」という方ではありません。世界の動きのすべては神さまの手の中、支配の中、力の中にあります。それを信じて現すために、手を止めて神様に感謝し賛美する日を過ごすようにと教えられています。(もちろん怠けないように、とも書いてあります。)
安息日は神様が与えてくださった良いものを味わう日、感謝する日、神様と隣人を愛する日です。愛し合う男女が他の用事をずらして相手のために時間を作り、一緒に過ごす時間を喜ぶように、そのように神様は僕らが神様との時間を過ごすことを願っておられます。これは縛りとか義務ではありません。愛です。
もしも、「時間ができたら神様のこと考えます」「ひまになったら祈ります」「時間が空いたときに賛美します」と言うなら、その人は神様を小さく見ています。というか、ヒマなら会う程度の神様なら本物ではありません。用事以下、仕事以下、お金以下、自分以下の神は神ではありません。神様はすべての命と力の源であり、いのちと支配そのものの方です。すべてのものはこの方によって生かされています。
もし、僕らが睡眠時間を削ってがんばっても、神様によらない動きなら虚しいだけです。もし、神様との交わりを喜び、愛され、愛している関係の中にいるのなら、僕らは寝ている間にも神様は良くしてくださいます。
(旧約聖書 詩篇 127:1-2)
主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。(…中略…)あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。
この方との関係を強くするために時間を取り分けて悪いことは一切起こりません。むしろ、神様にとっても、そして、僕らにとっても喜びです。
もしも、僕らが神様を後回しにして、がんばって休まないで何かをやり遂げても、それは消えていく霧のようです。
(新約聖書 ヤコブ 4:13-14 )
聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。」と言う人たち。
あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。
イエス様はもう一度地上に来られ、完全な救いがなされる、と預言されています。その時にいくら儲かったとか、何かを成し遂げたといっても、神様との交わりがないなら、消えていきます。何のためにがんばってきたのかわかりません。
神様との交わりはどんなことよりも価値があり、そこには喜びがあります。神様もまた、「あなたがたを楽しませる」とおっしゃいます。神様を第一にする人は神様に喜ばれ、その歩みは楽しみで満ち、祈りは聞かれます。
7 わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。
神様との関係を第一に求める人には人種的な差別とか、身分の違いはありません。「自分はダメだ」と思う必要はありません。
3 主に連なる外国人は言ってはならない。
「主はきっと、私をその民から切り離される。」と。宦官(去勢され子どもを産めなくされた人。祝福されていない、と思われていた人)も言ってはならない。
「ああ、私は枯れ木だ。」と。
4 まことに主はこう仰せられる。
「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶ事を選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、
5 わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる分け前と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。
神様との関係を第一とすることは縛りではなく、喜びです。
主の来られる日は近いと聖書は言います。この世は終わると聖書はいいます。その時に僕らの考える善悪基準は消えていきます。神様との交わりだけが永遠です。神様を第一としましょう。そこには喜びがあり楽しみがあります。
6 また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった外国人がみな、安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、
7 わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。

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