ヨハネの手紙第二
今もカルト被害がありますが、聖書の時代にもありました。使徒ヨハネはニセモノに気をつけるようにと書いています。イエス様を信じることは、真理とつながることです。イエス様はご自分が真理そのものだとおっしゃいました。そして、本物とつながっているなら、ニセモノがわかります。
使徒ヨハネはカルト被害を意識してこの箇所を書いています。イエス様のことばを信じ、そのことばにとどまることは真理と自由にとどまることです。
(新約聖書 ヨハネ 8:31-32)
もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。
1 長老(使徒ヨハネ)から、選ばれた夫人とその子どもたち(教会の皆さんのこと)へ。私はあなたがたをほんとうに愛しています。私だけでなく、真理を知っている人々がみな、そうです。 2 このことは、私たちのうちに宿る真理によることです。そして真理はいつまでも私たちとともにあります。3 真理と愛のうちに、御父と御父の御子イエス・キリストから来る恵みとあわれみと平安は、私たちとともにあります。
真理と愛にとどまる時には恵みと平安があります。ですが、ニセ教師に捕まると平安も恵みも失い束縛されてしまいます。この時代も人を惑わし、利用し、愛するのではなく搾取し、教会を破壊しようとするニセモノが大勢いました。
5 そこで夫人よ。お願いしたいことがあります。それは私が新しい命令を書くのではなく、初めから私たちが持っていたものなのですが、私たちが互いに愛し合うということです。(…中略…)
7 なぜお願いするかと言えば、人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。
イエス様は何度も隣人を愛することを教えてくださいました。その愛とは、「好き」という気持ちではなく、相手のために「犠牲を伴う行動」です。与えること、配慮すること、相手のために命さえ捨てることです。僕らは「愛」といいつつ、本当は自分がよく思われたい、自分の欲のため、などいつも自己中だったりします。ですが、イエス様の愛は自分を脇において本当に相手を大事にするものです。この愛は人からは出ず、ただ、イエス様によって与えられるものです。イエス様を信じつながることは、真理と愛につながることです。
ところが、真理でも愛でもなく、人を惑わし利用しようとするニセ教師、ニセ預言者が大勢います。聖書は何度も気をつけるように警告しています。
6 愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。7 なぜお願いするかと言えば、人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。8 よく気をつけて、私たちの労苦の実をだいなしにすることなく、豊かな報いを受けるようになりなさい。 9 だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています。
聖書の時代の教会は神様のことを教えてくれる先生を家に迎えて、宿泊してもらって教えてもらうのが一般的でした。ですが、もし、キリストの教えにとどまらない先生がいたら、絶対に迎え入れないように、と聖書は警告しています。
10 あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。11 そういう人にあいさつすれば、その悪い行ないをともにすることになります。
神様は人類にテレパシーとか、直接心に語りかけるとか、いろんな方法で神様からのメッセージを伝えることができます。だのに、神様である方が2000年前に人間になり、僕らと同じくことばを話し、食べたり、寝たり、疲れたり、という生活をされて、人間のことばとして神様を教えてくださいました。使徒のヨハネはイエス様と3年も一緒に生活して、それを伝えています。
(新約聖書 1ヨハネ 1:1-2)
初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、
――このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。
(新約聖書 ヘブル 1:1-2)
神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、
この終わりの時には、御子(イエス様のこと)によって、私たちに語られました。
(1ヨハネ 4:2-3)
人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。
イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。
神様は人となって来てくださったイエス様によって語ってくださいます。その教えは新約聖書に記録されています。もし、「私は直接神の啓示を受けた」という人がいたら、それがイエス様の教えなのかどうか聖書から吟味する必要があります。もし、キリストの教えにとどまらず、「新しい教え」「新しい啓示」と言って惑わす人がいたら要注意です。「だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。」(9節)
また、その人の言動を見るとニセモノかどうかわかります。真理と愛は行動に出ます。真理と愛はイエス様のご性格です。そして、御霊の実です。
(新約聖書 マタイ 7:15-18)
にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。(…中略…)良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。
良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。
イエス様にとどまる人は真理と愛にとどまります。イエス様にとどまる人はイエス様のご性格が現れて来ます。
(新約聖書 1コリント 13:4-7)
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。
すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
今もカルト被害があります。
自称キリスト教の牧師であっても、聖書の教えにとどまらず、他の教えを強調し、奪い、高ぶり、自由ではなく束縛し、自分への栄光や賞賛を求めているなら、ニセモノです。彼らの目的は人々を利用して搾取することです。
(1ヨハネ 2:4-6)
神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。
今日もイエス様ご自身の真理のことばを求め、イエス様の愛を求めましょう。
真理と愛はイエス様から出ます。イエス様にとどまりましょう。そこにこそ本物の自由と喜びがあります。
(新約聖書 ヨハネ 8:31-32)
もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。
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