創世記41.38-52
苦しみの先には慰めと回復があります。聖書は何度もそう言います。信仰者に苦しみがあると聖書は言いますが、同時にその先の回復と慰めの希望があることが約束されています。
(2コリント1:5)
私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。
(1ペテロ1:6-7)
いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。
(1ペテロ 5:10)
あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。
ヨセフは兄たちから妬まれ17才で奴隷として売られ、売られた先でも女主人に恨まれて冤罪で収監され、その後も忘れられたままでした。それでも神様は約束どおり彼を回復させ、30才になった時にエジプト全土を支配する人になるまで回復します。
(42-43)
そこで、ファラオは自分の指輪を指から外してヨセフの指にはめ、亜麻布の衣服を着せ、その首に金の首飾りを掛けた。
そして、自分の第二の車に彼を乗せた。人々は彼の前で「ひざまずけ」と叫んだ。こうしてファラオは彼にエジプト全土を支配させた。
ヨセフはエジプトの支配者になり、全ての権威と栄光を持つことになりました。それは彼の能力によるものではなく、神様から夢で与えられていた啓示の通りでした。(創世記37.6-9)彼は神様への感謝を込めて自分の子どもに名前をつけます。
(50-52)
飢饉の年が来る前に、ヨセフに二人の子が生まれた。オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテが産んだ子である。
ヨセフは長子をマナセと名づけた。「神が、私のすべての労苦と、私の父の家のすべてのことを忘れさせてくださった」からである。
また、二番目の子をエフライムと名づけた。「神が、私の苦しみの地で、私を実り多い者としてくださった」からである。
僕らも誤解され苦しめられることがあります。それはイエス様を信じるゆえである場合が多いです。…ですが、そのままで終わることはありません。やがてイエス様と一緒に栄光が与えられます。その人には大きな報いがあります。だから喜び踊りなさい、とさえ聖書はいいます。(マタイ5.11-12)みんなが地上でヨセフのように大臣になるのではありません。苦難のまま人生を終えるかもしれません。それでも聖書は「耐え忍んでいるなら、キリストとともに王となる。」と約束し(2テモテ2.12)「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないもの」と言います。(ローマ8.18)僕らの先輩たちは地上で栄光と勝利の約束を手に入れることはありませんでしたが、「はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白して」いました。(ヘブル11.13)苦しみの先には慰めと回復があります。聖書は何度もそう言います。今日の悲しみも苦しみも喜びと栄光に変えられるための通過点です。苦しみの中にも信仰と希望が今日も溢れますように。ハレルヤ!
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