2023年5月8日月曜日

創世記39章

 ●創世記39章 ●タイトル 主が共におられる



西壁で祈れた恵み


ダビデ王やその息子のソロモン王は共に神の臨在を「手で造った家」に入れることはできないことを宣言しました(Ⅰ列王8:27、使7:48)それでも、ソロモンはこの神殿を建てる時に、ここで捧げる祈りを聞いてください、と願い、神様はその祈りの通りにしてくださいました。


1列王記 8:29 そして、この宮、すなわち、あなたが『わたしの名をそこに置く。』と仰せられたこの所に、夜も昼も御目を開いていてくださって、あなたのしもべがこの所に向かってささげる祈りを聞いてください。

1列王記 8:30 あなたのしもべとあなたの民イスラエルが、この所に向かってささげる願いを聞いてください。あなたご自身が、あなたのお住まいになる所、天にいまして、これを聞いてください。聞いて、お赦しください。


1列王記 8:41 また、あなたの民イスラエルの者でない外国人についても、彼があなたの御名のゆえに、遠方の地から来て、

1列王記 8:42 ――彼らは、あなたの大いなる御名と、力強い御手と、伸べられた腕について聞きますから。――この宮に来て祈るとき、

1列王記 8:43 あなたご自身が、あなたの御住まいの所である天でこれを聞き、その外国人があなたに向かって願うことをすべてかなえてください。


1列王記 9:3 主は彼に仰せられた。「あなたがわたしの前で願った祈りと願いをわたしは聞いた。わたしは、あなたがわたしの名をとこしえまでもここに置くために建てたこの宮を聖別した。わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある。


「あなたがわたしの前で願った祈りと願いをわたしは聞いているよ」日本でいのっていることも、いつも全部、聞いているよ。という感覚。主の臨在、主の近くにいる感覚は、

全てが満たされている感覚でした。言葉にできないほどの安心感。神様は全て「すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられる」(エペソ1.23)神様の前では何も不足はない、神様と一緒にいることは全てに満たされていること、ど安心、平安、僕らが学んで来た以上の今まで知らなかった、満足感と平安に満ちている世界でした。


今日はヨセフが辛く悲しい状況におかれたこと、それでも、その渦中でも神様が一緒にいてくださる希望と喜びを持っていた箇所を一緒に読みたいと思います。そしてその同じ神様が僕らがどんな時も一緒にいてくださることを確信したいと思います。


悪い事の中に、神様のめぐみとご計画がある


なんでこんなことが起こるのか?ということが僕らの周りにはたくさんあります。神様がいるならなぜ?

その時に自暴自棄になるか、希望を持てるか、それは神様が一緒にいてくださることがどうかにかかっています。事実は神様はいつも一緒にいてくださいます。でも、それを知っているか忘れているかで、僕らの心は変わります。神様が一緒にいてくださることがわかると心が変わり、結果として体も状況も変わります。どんなに苦しい時にも神様は一緒にいます。そしてどんな時にも神様は語りかけてくださっています。イエス様はおっしゃいました。世の終わりまでいつもあなたがと共にいます。


神様が一緒にいるといいことばかりがあるよ、とは聖書は教えていません。この世の中には苦しみがあります、と教えいています。キリストご自身が苦しみをうけた方なので、僕らもその苦しみに連帯し、人から妬まれたり、憎まれたり、傷つけられたりします。その苦しみの中にも神様は一緒にいてくださいます。



●1神様がヨセフと共におられた ● 2 ヨセフも神様と共にいることを選んだ


1神様がヨセフと共におられた


39章の文脈です。主人公はヨセフです。ヨセフは、お父さんには可愛がられたんだけど、11人の兄たちにはねたまれ、憎まれ、殺されそうになりました。実際、一度は穴の中に放置されてそのまま殺されそうになりました。そのあと、兄たちは、殺すよりもお金にしよう、とうことになり、奴隷としてエジプトに売られてしまいました。


これは最悪の出来事です。可愛がられておぼっちゃん育ちのヨセフが言葉のわからない国に売られ、連れて行かれて奴隷にされました。奴隷は何一つ所有できないし、自分の意思もありません。エジプトでは右も左もわかりません。逃げることもできません。全てを失ったヨセフです。奴隷はただ主人の言いなりにしなければなりません。神様がいるなら、なんでこんなことが?と思ってもおかしくない状況です。そうでなくても兄たちから捨てられたことで、精神的にもおかしくなりそうな状況です。


ところが聖書はそれと逆のことを言います。何もかも失いましたが、神様はヨセフと一緒にいました。それが2節です。


2,主がヨセフとともにおられたので、彼は成功する者となり、そのエジプト人の主人の家に住んだ。


全てを失っても、主がヨセフとともにいました。主が一緒にいてくださることだけで十分でした。「彼は成功する者となり、」とあります。

ヨセフが偉いのではありません。ヨセフに能力があったのでもありません。聖書は「主がヨセフとともにおられたので、彼は成功する者となり」と言います。全てを満たす神様が一緒にいてくださる安心感は、ヨセフからにじみ出ていたと思います。

彼を奴隷として買った主人のポティファルにもわかりました。


3,彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを彼に成功させてくださるのを見た。

4,それでヨセフは主人の好意を得て、彼のそば近くで仕えることになった。主人は彼にその家を管理させ、自分の全財産を彼に委ねた。

5,主人が彼にその家と全財産を管理させたときから、主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を祝福された。それで、主の祝福が、家や野にある全財産の上にあった。


この主人ポティファル。ヨセフを奴隷として買ってから、なんか我が家が祝福されている。と感じていました。

あいつが来てからウチの財産も増えている。状況が良くなったのはあいつが来たとき以来、と主人であるポティファルは実感していました。


3,彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを彼に成功させてくださるのを見た。

4,それでヨセフは主人の好意を得て、彼のそば近くで仕えることになった。主人は彼にその家を管理させ、自分の全財産を彼に委ねた。


主人ポティファルはヨセフを奴隷としてではなく、信頼できる部下として好意を持ちました。それで、彼を自分の秘書のように信頼して全財産を任せるようになりました。「主人は彼にその家を管理させ、自分の全財産を彼に委ねた。」全財産です。家のお金全部の権限を預けました。今でいうなら通帳も印鑑もパスワードも全部このヨセフに預けました。


ちなみにこのポティファル、1節によると、「ファラオの廷臣で侍従長のポティファル」ファラオ、というのはエジプトの王様です。一般人が近づけるような人ではありません。その側近である侍従長、王様の側近の中でもリーダーであったのがこのポティファルです。エジプトでも相当身分の高い人でした。そのポティファルの財産を全部預かっているのがヨセフです。これだけでもものすごい出世です。


それほど彼は信頼を得たし、彼を信頼して仕事を任せるほどに祝福されることがわかったようです。これは神様の約束の通りでした。


創世記12.3

3,わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」


ヨセフを優遇するほどに、ポティファルの家も祝福されます。これは神様のみことばの実現です。それで、家の中だけでなく、「それで、主の祝福が、家や野にある全財産の上にあった。」5とあります。


ヨセフはもはや奴隷ではなくなりました。

ポティファルは、この祝福は主がヨセフと共にいるからだ、ということがわかりました。そしてヨセフ自身もちっちゃい時から聞いてきた通り、あなたを祝福するものを私は祝福する、とおじいちゃんからも、お父さんからも聞かされた通りだとよくわかったと思います。


また、彼は夢で神様からの啓示が与えられています。

やがて、自分をいじめた10人の兄たちが自分の前でひれ伏す、ということを神様から夢で見させてもらっています。37章に書かれています。


人から見れば妬まれ憎まれて売られる、という悪い状況だけど、そこでも神様が一緒にいてくださること、そして、神様が与えてくださっているビジョンは必ず実現する、という信仰が彼に希望と力を与えていました。


この後、後半では冤罪で今度は牢屋に入れられるんだけども、そこでも主はヨセフと共にいたと聖書は繰り返します


21,しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。

22,監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手に委ねた。ヨセフは、そこで行われるすべてのことを管理するようになった。

23,監獄の長は、ヨセフの手に委ねたことには何も干渉しなかった。それは、主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。


人から見ると状況はさらに悪くなります。監獄で人に仕えるのは大変です。出て来た人に聞いたら、刑務所は悪の学校のようだと言っていました。囚人たちの性格は、激しい人も多くて、悪賢い人も多かったはずです。ヨセフは、そこでそこでも祝福されました。神様の祝福とか、神様の愛とか、神様の恵みは状況には左右されません。

受刑者たち、犯罪者たちだけの本当に傷ついた闇の世界に生きてるような人たちの中でも、神様は一緒にいてくださいました。そして祝福がそこにありました


僕らにとっても事実です。神様は今日も僕らと一緒にいてくださいます。そして、神様が一緒にいてくださることだけで十分です。皆さんも今おかれている状況は人間的に見れば悲しく辛い時期かもしれません。でも、神様は一緒にいます。そしてこの苦しみは将来と希望を与えるための通過点です。神様は僕らと一緒にいます。その事実は僕らの心をかえ、力を与えます。その希望は僕らの生活ににじみ出ます。


神様は今日もみなさんと一緒にいます。何も不足のない方が一緒にいて、あなたを愛し、あなたの祈りを聞き、将来と希望を与えようとしておられます。


●ヨセフ自身も神様と一緒にいることを選んだ


さて、前後しますが、彼がポティファルの家で祝福され、もはや奴隷というよりも、信頼される部下として家の全ての財産を管理していた時の話です。


7,これらのことの後、主人の妻はヨセフに目をつけて、「一緒に寝ましょう」と言った。

8,しかし彼は拒んで、主人の妻に言った。「ご覧ください。ご主人は、家の中のことは何でも私に任せ、心配せずに全財産を私に委ねられました。

9,ご主人は、この家の中で私より大きな権威をふるおうとはせず、私がするどんなことも妨げておられません。ただし、あなたのことは別です。あなたがご主人の奥様だからです。どうして、そのような大きな悪事をして、神に対して罪を犯すことができるでしょうか。」

10,彼女は毎日ヨセフに言い寄ったが、彼は聞き入れず、彼女のそばに寝ることも、一緒にいることもしなかった。


このおばさん、今でいうパワハラ、セクハラです。主人の奥様ですから上司であり権力者です。ヨセフは部下ですから全てのことに従いますが、罪を犯すことはできません、と断ります。


ヨセフは神様との関係で生きていました。いつも主が一緒です。神様は自分によくしてくださいます。神様からの祝福によって今の僕があります。そして、ご主人は僕の恩人です。どうしてご主人を裏切って、そして神様を裏切って罪を犯すことができるでしょうか。


これは神様からの問いかけだし、ヨセフの選択です。あなたはどっちと一緒にいたいんだ?この奥さんと一緒にいたいのか?それとも神様と一緒にいたいのか?両方は無理です。主はヨセフと共にいた、なんども書かれています。そして、ヨセフも神様と一緒にいることを選びます。私たちも毎日問われています。どちらと一緒にいたいのか?どちらを選びたいのか?神様か、この世か。


ある日この奥さんは無理やり服を掴んで、寝ましょうと言って気ました。無理やりその状況を作ればヨセフは拒否できない、と思ったようです。その時、彼はとっさに逃げました。

そうすると、この奥さんはプライドが傷つけられます。今度は被害者になりきり、きゃー、だれか助けて、あの奴隷のヨセフが私に抱きついてきた、とわめきます。思い通りにならないと、今度は私は被害者だ、傷つけられた、と主張します。僕らの周りでもよくある話です。自分は悪くない、私は被害者だ、と言います。


14,彼女は家の者たちを呼んで、こう言った。「見なさい。私たちに対していたずらをさせるために、主人はヘブル人を私たちのところに連れ込んだのです。あの男が私と寝ようとして入って来たので、私は大声をあげました。


ご主人が帰ってくるまでヨセフの服を証拠品として手元においておきました。


16,彼女は、ヨセフの主人が家に帰って来るまで、その上着を自分のそばに置いておいた。

17,彼女は主人に、このように告げた。「あなたが私たちのところに連れて来た、あのヘブル人の奴隷は、私にいたずらをしようとして私のところに入って来ました。

18,私が声をあげて叫んだので、あの男は私のそばに上着を残して、外へ逃げました。」

19,彼の主人は、「あなたの奴隷がこのようなことを私にしました」と告げた妻のことばを聞いて、怒りに燃えた。


あんたいつもヨセフは忠実な良いしもべだとか、あいつが来てから我が家が祝福されている言っているけど、こんなこと私にしたのよ、あなたが連れ込んだ、あいつ。あなたのせいだ。


ヨセフは冤罪で牢屋に入れられました。神様と共にいることを選び、悪を退け、それで牢屋に入れられることを選びました。

ことを荒立てずに、言いなりになってこの女性と寝ることも選べました。しかし、その時に彼は神様からの祝福も失ったでしょう。

神様を選ぶことはこの世から憎まれます。それでも、ヨセフは主とともにいることを選びました。牢屋に入れられたヨセフを祝福してくださり、共にいました。


●適用


主が共にいる、というイメージは願いが叶うとか、思い通りになるとか、安全安心だとか、そういうことだけではありません。願いとは違うこと、思い通りにならないこと、ひどいこと、傷つくこと、その状況を通らされるけども、そこにも全てを満たしておられる主は共におられる、ということです。


神様は何一つ不足がない方です。全てに満ちている方です。人からみてどんなん悪い状況でも、全てに満ちています。そこには人の思いを超えた安心感があります。

どんなひどい状況の中でも、神様が一緒にいてくれること、全てに満ちた神様の祝福が失われていないこと、それを信じることです。


どこにいるか、状況はどうか、ではなく、

誰と一緒にいるか。誰を思っているか。心がどこを向いているか、です。


あの女性と一緒に寝て祝福を失うよりも、嫌われ、疑われ、牢屋に入れられても神様と一緒にいる方が良いのです。


ヨセフは、アブラハムの4代目、祝福の子です。ヨセフと一緒にいてくださった神様は僕らと一緒にいます。そして、僕らも同じ祝福を受け継ぐのです。イエス様を信じる人はアブラハムと同じように、遠い外国人であっても、ヨセフと同じように祝福を受けるのです。ヨセフが忍耐し神様を選んだように、僕らも忍耐して神様を選び続け、祝福を選び続けます。


ガラテヤ3:9

そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。


皆さんも今辛い状況かもしれません。誰かに妬まれたり、誤解されたり、憎まれたりしてるかもしれません。

罪を拒否したことで、神様を選んだことで、この世から冷たくされているかもしれません。

それはイエス様ご自身が一緒に経験してくださっています。イエス様は私のために罵られるなら幸いです、とおっしゃいます。神様と一緒にいることで、苦しむことはイエス様に従うことです。


1ペテロ3:9

悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。


神様が一緒にいてくださいます。悪い状況の中でも、祝福を周りに与えるためにに召されたのです。この職場に、家に、神様の祝福をもたらすために召されました。人から見えば不幸な状況に見えるかもしれません。でも、そこにも全てに満ちた神様のご臨在があります。

神様と一緒にいる、ということがあらゆる災いや悪の中で、祝福になって行きます。


このあとヨセフはエジプトの総理大臣になり、エジプトを救います。神様を知らない異邦人を、偶像礼拝の国を救います。


神様の祝福は神様の子どもを通して全ての国々に与えられます。

今日も僕らと一緒にいてくださいます。


主は僕らと一緒にいてくださいます。ハレルヤ!


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