2023年6月5日月曜日

ヨシュア10.28-43

 聖書にある戦争の記事を見ると、僕らはなんて残酷な!と思いがちです。人間を命を作ったり、人間を滅ぼしたりすることができるのは、唯一神様だけです。人間が勝手に裁きを下したり、復讐したり、殺したりする事は、神様が禁じておられます。「殺してはならない。」です。(出エジプト20.13)…ですが、神様だけは、世界をさばき、汚れたものや罪あるものを全て一掃されます。聖なる聖なる聖なる神様は罪を受け入れることができない方です。それゆえに最終的には神様は汚れた世界を滅ぼし、悪いものを全て消し去ります。

そのプロセスとして神様はイスラエルを選ばれ「あなた方を宝の民、聖なる民とする」と言われ、聖なるものにふさわしくなるための律法を与え、それは神様の心と一つとなるための律法です。「聖なる」とは、神様と同じ心となり、神様専用となり、神様のために取り分けられた状態です。


神様は汚れたものを「聖絶」されます。「聖絶」とは、神の御前にのろわれたものとされたものを、絶滅したり徹底的に破壊したりして、再び回復することができない形にすることです。神様「だけ」で世界を滅ぼすことができる方なのに、神様はいつも人間を用います。イスラエルは神様に選ばれ、神様の計画を実行するために聖別された民として用いられます。まるで神様の器官、手足のようにイスラエルは聖絶のために用いられました。リーダーであるヨシュアはイスラエルの人々と一緒に動き、戦います。神様はヨシュアと一緒に動き、戦います。神様は孤独の中で働く方ではなく、いつもチームの愛と従順と信頼の中で新しいことをなさる方です。



(29-32)

29 ヨシュアは全イスラエルとともにマケダからリブナに進み、リブナと戦った。 

30 主は、この町もその王もイスラエルの手に渡された。それで彼は、その町とそこにいたすべての者を剣の刃で討ち、そこに一人も残さなかった。彼はエリコの王にしたようにその王にした。 

31 ヨシュアは、全イスラエルとともにリブナからラキシュに進み、これに向かって陣を敷き、ラキシュと戦った。 

32 主はラキシュをイスラエルの手に渡された。ヨシュアは二日目にそれを攻め取り、その町と、そこにいたすべての者を剣の刃で討った。すべて彼がリブナにしたとおりであった。 



イスラエルが戦って町を聖絶することを聖書は「主は、この町もその王もイスラエルの手に渡された」(30)「主はラキシュをイスラエルの手に渡された。」と表現します。(32)イスラエルがすることと神様がなさることが一つとなっています。ヨシュアとイスラエルが多くの町を滅ぼし聖絶したことは、彼らがしたことではなく「主がイスラエルのために戦われた」ことであり、(42)「イスラエルの神、主が命じられたとおり」(40)でした。



(39-40)

39 それとその王、およびそのすべての町を攻め取り、剣の刃で彼らを討った。そして、そこにいたすべての者を聖絶し、一人も残さなかった。彼がデビルとその王にしたことはヘブロンにしたとおりであり、またリブナとその王にしたとおりであった。 

40 ヨシュアはその全地、すなわち、山地、ネゲブ、シェフェラ、傾斜地、そのすべての王たちを討ち、一人も残さなかった。息のある者はみな聖絶した。イスラエルの神、主が命じられたとおりであった。  



神様が消し去ろうとするものを消し去ることは、イスラエルが守られ、聖なるものとされ、誘惑され汚されて一緒になって呪われることのないためでした。神様が悪を放置せず、それらを一掃してくださる理由は愛するイスラエルのためです。


(42)

これらすべての王たちと彼らの地を、ヨシュアは一度に攻め取った。イスラエルの神、主がイスラエルのために戦われたからである。 



今日もイエス様は単独で働くことをしません。僕らを選び、聖なるものとし、チームとして愛と従順と信頼の中でご計画を実行に移されます。聖書は僕らのことをキリストの体と呼び、「ひとりひとりは各器官」としてくださいます。(1コリ12.27)僕らの今日の動きの全てはイエス様と一緒です。イエス様を愛し、みことばを聞き、信頼して動くことで、僕らはますます一つにされていきます。そして神様の願いは僕らの手足を用いて、口を用いて、全てを用いて具体的に実行されます。僕らが悪とその背後にある悪魔と戦いますが、実は神様が戦ってくださり、勝利はもう100パーセント確定しています!今日も時間をとってイエス様のご計画を聞きましょう。そして、自分のすべきことを知りましょう。そしてそれを実行しましょう。僕らはチームイエス様です。ハレルヤ!





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