2023年6月5日月曜日

ヨシュア7.1,10-26 メッセージ

 ヨシュア7章1節 10ー26節「滅びるものに手を出すな」 6/4メッセージ


イエス様を信じて、聖書を読み始めた頃は、神様が愛の方、赦しの方って言う箇所はいいんだけど、町ごととその土地の人たちを全部皆殺しにしてしまう、と言う箇所が結構旧約聖書にあって、最初の頃はちょっと受け入れられなかったのを覚えています。

みなさんいかがでしょうか。神様は赦しと命の神様と聞いていたのになぜ?と思いませんか?

今日お読みしたのはまさにその箇所です。罪を犯したアカンという人はその家族ごと殺されてしまいました。

残酷で、容赦なく、コワイ話です。その通りだと思います。


そして、今日のメッセージの結論は、怖いぞ怖いぞと言う話ではなく、それでもなお神様は憐れみ深く、赦しに満ち、救おうとしてくださるという話です。私も、あなたも、皆さんも小さな罪、大きな罪、隠し事、言えない過去、人それぞれあって同じように滅ぼされ殺されてもおかしくないのに、赦され、生かされ、永遠の命が与えられています。その恵みの大きさを、このメッセージを通して教えていただきたいです。


僕らクリスチャンが感謝だね。ありがたいねと言うのは、いいことあったとか、上手くいった、という時もあるけど、それ以上に神の怒りに触れて、滅ぼされてもおかしくないのに、怒りが降ってもおかしくないのに、それでも何回も何十回も何百回も赦されたからです。


僕も会社員時代、明らかにこれは盗作だな、パクリだな、という罪を犯して、悩みました。神様に何度も祈って謝って、そして、そのたびに神様の答えは、「あなたの罪と不法を思い出すことをしない、」という聖書の言葉でした。その結果会社全体の問題となってもおかしくないのに、クビになってもおかしくないのに、訴えられておおかしくないのに。それでも、神様は悔い改め、罪を認め、罪を止めるときに憐れみ深いです。これが福音です。だから、教会には十字架が掲げられています。

十字架のイエス様を見上げる時に、あなたが呪われ、あなたが苦しみ、あなたが神に裁かれるはずだったのに、あの人が、あのイエス様が呪われて、あなたは赦され、無罪とされている、ということ思い出します。


今日の箇所は神様の怒りと裁きの箇所です。神様が罪を嫌い、罪を犯す人を殺し、消し去る、という怖い場面です。神様がどれだけ罪を嫌っているかがよくわかります。


今日はこの後聖餐式です。裂かれたパンはイエス様が苦しまれ、裂かれ、殺され、血を流し、あなたは赦され、免除され、祝福され、愛されている、ということを感謝するためのものです。神様のきよさと神様の怒りを表し、同時に、イエス様が身代わりになってゆるしきよめてくださったことを今日、もう一度確認して、そしてきよめられ、赦された人らしく、悔い改めて変えられる日でありますように。


1、聖絶が私たちに伝えること。


「聖絶」という言葉は新改訳聖書を翻訳するときに先生たちが悩んで作った訳語で、それから広辞苑に載るようになりました。ヘーレムというヘブル語が「神の御前にのろわれたものとされたものを、絶滅したり徹底的に破壊したりして、再び回復することができない形で主にささげること」を表わすときに用いられています。


徹底的に神様が罪を嫌い、消し去る、ということです。私たちにも言われています。神様は罪を消し去る方です。嫌う方、完全にゴミを無くし、きよめる方


2、神の怒りの矛先


罪に手を出した結果どうなるか。神様の怒りと裁きの対象、つまり聖絶の対象となります。


3、悔い改めることの大切さ



●1 聖絶が私たちに伝えること


罪深い人は滅ぼされる、罪はその人もその町も呪われ消される、のは聖書が一貫して伝えていることです。


元々、世界は神様によって作られ、本来世界はエデンの園のように、良いもので満ちていました。そこには一点の汚れ、罪も悪もなかったと言います。創世記に書かれています。


創世記1:31

神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。


ところが、人間は罪を選び、神様を崇めず、賛美せず、その代わりに自分で作ったものを崇め、仕えるようになりました。全ての人が罪を犯し人も世界も土地も呪われた者となってしまった。と聖書は伝えます。聖なる神様が罪を受け入れることができない方です。


神様は汚れた世界を滅ぼし、悪いものを全て消し去ります。そして世界はもう一度最初のように祝福された世界に回復します。


今、僕もあなたも、全員に罪があり、聖なる神様の前で立てる人はいない、という前提があります。

だのに、滅びるべき私たち人間なのに、神様は愛し救おうとされます。


救いの計画として、第一段階として、神様はイスラエルを選び、愛し、滅びから救うために、契約を結ばれました。彼らが立派だったからでなく、神様の選びと憐れみです。神様からの一方的な契約で、あなた方を聖なる民とする。あなた方を宝の民、聖なる民とする、という約束です。滅んでいく人々とは別にするから、交わってはならない、と言われます。これが神様との契約でした。


そのように神様が祝福される民として、聖なる人々として、まずイスラエルを選んだから、だから、滅びるべき罪や偶像と交わってはならない、神様がお嫌いになる罪を交わらないように、そして、それらを欲しがってはならない。という約束を与えました。


最後の裁き、最終的な聖絶はイエス様によって行われます。これは聖書が何度も言っていることです。カナンの先住民が神様に滅ぼされていくのは、最終的な神様のさばきがあることの予型です。


神様は汚れも悪も徹底して滅ぼしていく。

罪は燃えるゴミのようです。そして回収業者は神様のようです。神様は徹底的に回収し燃やします。この世界から罪を消し去り、滅ぼし尽くし、完全にきよめます。燃えるゴミはいらないし、リサイクルできないので、ただ、集めて燃やすだけ。そのゴミを欲しがってゴミと交わってゴミを隠し持っていたり、自分から大きなゴミ袋の中に入っていくなら、あなたも回収されて燃やされてしまう。


神様は聖絶のものに手を出すな、とおっしゃいます。理由はあなたも一緒になって滅ぼされてしまわないためです。



(ヨシュア6章18節)

あなたがたは聖絶の物には手を出すな。あなたがた自身が聖絶されないようにするため、すなわち、聖絶の物の一部を取ってイスラエルの宿営を聖絶の物とし、これにわざわいをもたらさないようにするためである。



6.18では、神様が滅ぼし尽くすものには手を出すな、と言われています。理由は「あなたがた自身が聖絶されないようにするため」「イスラエルの宿営を聖絶の物とし、これにわざわいをもたらさないようにするため」です。


あなた個人の問題ではなくイスラエル全体が滅ぼされるものとなってしまうからです。


新約聖書は小さな罪を放置することは、教会全体に影響を与えると言います。罪のことをパン種と聖書は言います。まるで小さなパン種が大きく膨れるように、どんな小さな罪もごまかしも、憎しみも妬みも、淫らなことも、放置するなら、自分だけでなく共同体、教会全体に霊的な悪影響を及ぼし、教会は力を失い、ついには滅ぼされる側になってしまう、と警告しています。


だから、あなたはそれを小さなものを放置しないで、全体に悪影響を与える小さな罪を取り除いてください。

イエス様がすでにその人の代わりに血を流して死んでくださった。だから、罪を罪と認めて神様に告白し、悔い改めて、それを止めて、方向転換をしてください。悔い改めるなら、神様に告白するなら、イエス様の血はわたしたちを完全にきよめます。


ヨシュアに戻りますが、

6章で手を出すな、と警告されていました。そして、7章は手をだした、という箇所です。


●2 神様の怒りの矛先


神様を裏切った結果。裏切りとは―ひそかに敵方について味方にそむくこと.。敵とは、神様が消し去る相手。当然、敵につくことは、滅ぼされる側にいく、ということ。聖絶のものに手を出した結果は滅びです。



(7章1節)

しかし、イスラエルの子らは聖絶の物のことで主の信頼を裏切った。ユダ部族のゼラフの子ザブディの子であるカルミの子アカンが、聖絶の物の一部を取った。それで、主の怒りがイスラエルの子らに向かって燃え上がった。



アカンという人が神様が滅ぼすべきものを自分のものとしました。

その時からイスラエル全体も神様の怒りの対象となってしまい、聖絶の対象となってしまいました。もう、敵を滅ぼすどころか、自分たちも滅ぼされるものになってしまいました。


たちまちイスラエルは神様の味方ではなくなり、敵を滅ぼすことができなくなりました。神様が滅ぼそうとする敵側についた人がいたので、イスラエル人たちが、小さなアイという町の人たちに逆に殺されるようになってしまいました。これは、敵に殺されたのではなく「主の怒りがイスラエルの子らに向かって燃え上がった。」と1節にあります。


(4-6)

4,そこで民のうち、およそ三千人がそこに上って行ったが、彼らはアイの人々の前から逃げた。

5,アイの人々は彼らの中の三十六人を打ち殺し、彼らを門の前からシェバリムまで追って、下り坂で彼らを討った。民の心は萎え、水のようになった。

6,ヨシュアは衣を引き裂き、イスラエルの長老たちとともに、主の箱の前で夕方まで地にひれ伏し、自分たちの頭にちりをかぶった。



ヨシュアはまさかこの中に裏切っている人がいるとは思わなかった。なぜ私たちが殺されるのですか?あんな小さい街に攻撃され、36人が既に死んでいます、まもなく、この地域のカナン人たち全員がこの話を聞いて、私たちを殺しに来るでしょう。なぜですか、と嘆きます。


(9)

カナン人やこの地の住民がみな、これを聞いて私たちを攻め囲み、私たちの名を地から断ってしまうでしょう。あなたは、あなたの大いなる御名のために何をなさるのですか。」



神様はヨシュアに原因を教えてくれます、裏切って、聖絶のものを盗み自分のものにした人がいた。それを取り除かなければ、あなた方も滅ぼされるものとなってしまう。


(10-12)

10,主はヨシュアに告げられた。「立て。なぜ、あなたはひれ伏しているのか。

11,イスラエルは罪ある者となった。彼らはわたしが命じたわたしの契約を破った。聖絶の物の一部を取り、盗み、欺いて、それを自分のものの中に入れることまでした。

12,だから、イスラエルの子らは敵の前に立つことができず、敵の前に背を見せたのだ。彼らが聖絶の者となったからである。あなたがたの中から、その聖絶の物を滅ぼし尽くしてしまわないなら、わたしはもはやあなたがたとともにはいない。


神様が滅ぼし尽くすものを自分のものとするなら、彼らも滅ぼし尽くされるものとなった、と神様は言われます。

それでも、神様は悔い改めのチャンスをくださいます。


(13)

立て。民を聖別せよ。そしてこう言え。あなたがたは、明日のために自らを聖別しなさい。イスラエルの神、主がこう告げられるからだ。『イスラエルよ、あなたの中に聖絶の物がある。あなたがたがその聖絶の物を、あなたがたの中から取り除くまでは、敵の前に立つことができない。


「聖別とは」完全に神様のものとしてとりわけなさい、ということです。罪も半分、神様半分ではなく、このぐらいはいいっしょ、ではなく、神様専用の自分として完全にとり分けなさい。そして、あなた方の中にある罪を取り除かなければ、あなたがたは敵に向かうことはできないし、一緒に滅ぼされてしまう、と言われます。


ヨシュアは祈りながら、くじで、誰がその罪を冒したのか調べます。聖書は神様の指示を仰ぐのに、くじを使うことが多いです。すると、アカンという人が盗んだことがわかりました。


(19)

19,ヨシュアはアカンに言った。「わが子よ。イスラエルの神、主に栄光を帰し、主に告白しなさい。おまえが何をしたのか、私に告げなさい。私に隠してはいけない。」

20,アカンはヨシュアに答えた。「確かに、私はイスラエルの神、主に対して罪を犯しました。私は次のようなことをしました。

21,私は分捕り物の中に、シンアルの美しい外套一着と、銀二百シェケルと、重さ五十シェケルの金の延べ棒一本があるのを見て欲しくなり、それらを取りました。それらは今、私の天幕の中の地面の下に隠してあり、銀もそこにあります。」



(25-26)

25,ヨシュアは言った。「なぜ、おまえは私たちにわざわいをもたらしたのか。主は今日、おまえにわざわいをもたらされる。」全イスラエルは彼を石で打ち殺し、彼の所有物を火で焼き、それらに石を投げつけた。

26,人々はアカンの上に石くれの大きな山を積み上げた。今日もそのままである。主は燃える怒りを収められた。それで、その場所の名はアコルの谷と呼ばれた。今日もそうである。



人々がアカンとその家族も殺し、火でやいた時に「主は燃える怒りを収められた。」とあります。

神様の怒りは、罪を犯した人が殺される時におさまります。罪の報酬は死であり呪いです。


●怒りからの救い


アカンが殺されたことで神様の怒りが鎮められたように、イエス様が十字架で殺されたことで、僕らに下るはずの怒りは過ぎこされました。


(ローマ5.9)

今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。




●3 悔い改めの大切さ


僕らが神様がお嫌いになる罪を欲しがり手に入れることで、神様に呪われる側行ってしまうことは今もあります。

その結果、自分だけでなく、周りとの関係がこじれていくこともよくある話です。密かな罪は自分だけでなく家族を傷つけ、人生を傷つけ、教会全体を傷つける。一人の問題ではなくその共同体全体に悪影響を与えます。今日の箇所はも、アカンの罪とは聖書は言わず、イスラエルの罪だと言います。「イスラエルは罪ある者となった。」(11)「彼ら(イスラエル)が聖絶の者となったからである。」(12)



罪を密かに隠し持つと神様との仕切りの壁となります。神様が遠く感じます。神様が罪を嫌い、罪を滅ぼす聖なるせいなるお方だからです。

クリスチャンです。私は神様を信じます。イエス様を信じます、という人が罪に手を出すと、苦しくなります。

なぜなら、神様が嫌う方だからです。教会の交わりに入りずらくなるでしょう。その交わりは聖なる交わりだからです。


イエス様はそんな罪人を今日も招いてくださっています。


イエス様は言われました。


(ルカ 5:32)

わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。



どんなに罪を犯しても、神様は憐れみ深いです。人々を救うために、第一段階として神様はイスラエルを選びました。次にイエス様は罪がないのに、罪人の代表として、神様の怒りを身代わりに受けるためにこの地上に来てくださいました。神の怒りを受け、呪いを受け、身代わりになって、十字架の上で死なれました。これが福音です。


(ローマ5:8-9)

私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。


誰も、聖なる聖なる神様の前に出ることはできないはずです。誰も知らないあの罪があります。墓場まで持っていこうと思っている隠し事があるはずです。でも、その怒りと呪いを受けて聖絶される側になってくださったのはイエス様です。

だから僕らは赦されます。受け入れられます。赦され、回復され愛されます。だから恐れなく罪を認めることができます。


罪を認めず、悔い改めず、罪を抱えたままでは神様と交わることができません。アカンが殺されたように、聖なる神様は、罪を放置することをなさいません。罪を認めず、悔い改めず、教会の交わりに罪を持ち込む人がいるなら、イエス様はその人との交際を断ち切りなさい、と言います。アカンのケースと同じです。教会全体がその悪影響を受けないためです。



(1コリント5:11)

私が今書いたのは、兄弟と呼ばれる者で、淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者がいたなら、そのような者とは付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない、ということです。



これは、愛して、忠告して、それでも罪を認めないなら、除名して、交際を断ち切りなさい、という意味です。

キリスト教会の中に教会戒規というのがあります。東栄教会の規約は聖書に基づいたルールですが、そこにもかかれいます。教会が聖なるものとして保たれるためです。



第十条第一項 

信仰告白に反する言動をし、悔い改めようとしない者に対して執事会は慎重な調査と判断により、戒告もしくは陪餐停止処分にし、公示することができる。

第二項 更に、総会は、上記の者を除名することができる。この場合、公示し本人に通知しなければならない。Ⅰコリント5;5,



僕が神学生だったとき、一人の先生が除名になりました。詳しい罪の内容は公開されませんでしたが、性的な問題だと言われていました。当時の校長先生が二人だけでその人の罪を指摘し、一緒に悔い改めるように言ったけども、彼は受けれず、公に週報に除名処分となりました、と公示されました。


僕が20年の牧会生活でも何度も、いつ言おうか、いつ注意しようか、と悩む時があります。教会の皆さん優しくて、罪人が招かれている、というところだけで親切に受け入れてくれます。みんな優しいな、って思います。でも、僕は密かにこの罪を知ってしまった以上は彼を愛するためにも、それをまずは二人だけのところで注意し、一緒に神様に認め、悔い改めたいと思います。


除名とか戒告もしくは陪餐停止処分、いつかはしなければ、と密かに思っているうちに、ほどんどのケースはその人が礼拝を避け、交わりを避けるようになります。ほとんどのケースは総会の議題に上がる前に、その人が自分から教会を避け、交わりを断ち切るようになっています。

最初はメールで連絡が取れていても、だんだん、返信がなくなり、そのうちに連絡が取れなくなります。


これは神様が教会を聖なるところとされている証だと思います。

罪をそのままで、悔いあらためないままで、このままでいいじゃん、性的な罪を悲しむことなく、不正や高ぶり、人の悪口陰口、裁き目線を放置するなら、その人は神様との交わりが遠くなり、キリストの体との交わりが切れていきます。

その理由は、神様が罪を受け入れないからです。


私たちも同じ罪人として、一緒にその人の罪も自分の罪として一緒に祈り謝り、とりなし続ける必要があります。その人が救われるためです。


神様は罪のある人をそのままでいいよ、受け入れるよ、ということはないです。


イエス様はおっしゃいました。


(ルカ 5:32)

わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。


イエス様が血を流して赦してくださっています。

どんな罪でも赦されます。悔い改めることは神様の元に帰ることです。

悔い改めは滅びから救われることです。悔い改めは死から命にうつることです。サタンから神様に戻ること、闇から光に戻ることです。


罪を認めて謝りましょう。どんな罪も許されきよめられます。

あの人のことだ、この人のことだ、ということでなく、まず自分の罪を認め悔い改めましょう。そして、イエス様が愛する同じ罪人仲間のためにも一緒に謝り、悔い改めましょう。


教会が苦手だな、神様が遠いな、と感じている方がいたら、神様との壁となっている罪を教えてもらいましょう。そこにたかぶりがないか、裁きがないか、自分の欲、愛のなさ、不正、嘘、どんな小さな罪も認めて捨てていきましょう。必ず新しくされます。


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