ヨシュア20.1-6
人はうわべを見ます。僕らはうわべだけで人を判断し「あの人はきっとこうだ」と思い込みがちです。全てを知っておられるのは神様だけです。人を傷つけるつもりが全くないのに、結果として人を傷つけていることがあります。殺すつもりはないのに結果として相手が死んでしまうこともあります。聖書にそういう事例が書かれています。
(民数記35.22-23)
もし敵意もなく突然人を突き倒し、あるいは悪意なしに何か物を投げつけ、または、人を死なせるほどの石を、よく見ないで人の上に落としてしまい、それによってその人が死んだなら、しかもその人が自分の敵ではなく、害を加えようとしたわけではないなら、
(申命記19.5)
たとえば、隣人と一緒に、木を切り出そうと森に入り、木を切るために斧を手にして振り上げたところ、斧の頭が柄から抜けて隣人に当たり、その人が死んだ場合、
そのような場合、加害者であっても保護されるように、と聖書は教えます。敵意がないのに相手が死んでしまったのは、「神が御手によって事を起こされた場合」です。(出エジプト21.13)そのような場合は相手の家族や友人から復讐されないために「逃れの町」に逃げなさい、と言います。神様が問われるのは敵意があったか、なかったか、です。神様は心を見ます。
(1-6)
1 主はヨシュアに告げられた。
2 「イスラエルの子らに告げよ。『わたしがモーセを通してあなたがたに告げておいた、逃れの町を定めよ。
3 意図せずに誤って人を打ち殺してしまった殺人者が、そこに逃げ込むためである。血の復讐をする者から逃れる場所とせよ。
4 人がこれらの町の一つに逃げ込む場合、その人はその町の門の入り口に立ち、その町の長老たちに聞こえるようにその事情を述べよ。彼らは自分たちの町に彼を受け入れ、彼に場所を与える。そして彼は彼らとともに住む。
5 たとえ血の復讐をする者が彼を追って来ても、その手に殺人者を渡してはならない。彼は隣人を意図せずに打ち殺してしまったのであって、前からその人を憎んでいたわけではないからである。
6 その人は会衆の前に立ってさばきを受けるまで、あるいはその時の大祭司が死ぬまでその町に住む。その後で、殺人者は自分の町、自分の家、自分が逃げ出した町に帰って行くことができる。』」
ヨシュア記は罪のある人も徹底的に滅ぼし尽くし聖絶せよ、という神様の命令に溢れています。その話の中で、神様が嫌い滅ぼそうとしている罪とは、表面的な出来事よりも心がどうか、であることがわかります。もし、敵意がないのに人が相手が死んでしまったのならその人は保護されます。神様が見ておられるのは僕らの心です。そしてそれを正しく人をさばくのは神様だけです。「主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。」(1コリンと4.5)どんな小さな、心の中だけ小さな敵意も神様の前には明らかだし、神様だけが正しく裁きます。だから今日もどんな小さな悪意も憎しみも告白しましょう。告白する罪は赦され、きよめられます。(1ヨハネ1.8-9)イエス様こそ完璧な逃れの町です。いつもイエス様のところに行って、祈りの中で事情をちゃんと言いましょう。どんな罪も赦されます。イエス様だけが逃れの町です。今日もイエス様のところに行きましょう。正しく裁く方でありながら、憐れみと赦しに満ちている神様です。ハレルヤ!
0 件のコメント:
コメントを投稿