1コリント 10.14-33
クリスチャンは「あれダメ、これダメ」と言う人たちではないし、逆に「ああしたい、こうしたい」と言う人でもありません。クリスチャンはそのような線路の上にはなく、キリストとともに死んだ人です。死んだ人はルールも好き嫌いもありません。そう思い続けなさい、と聖書は言います。(ローマ6.4-11、ローマ7.4-6など多数)
そして、クリスチャンはキリストとともに復活した人です。過去は忘れられ、全てが変えられ、新しくなり、自由な人です。「主の御霊のあるところには自由があります。」(2コリント3.17)「あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」(ガラテヤ5.13)御霊の自由は愛する自由です。御霊の自由は神を愛し、神の栄光を表し、人を愛し、自分を捨てて従い、仕える自由です。
コリント教会には「偶像に捧げた肉」を食べてもいいのか?という議論がありました。偶像の礼拝に使うために流通した肉、宗教がらみの肉です。パウロの基本方針は自由です。食べて毒になるとか、汚れる、ということはありません。ですが、もしそこに「汚れるかもしれない」と良心が痛む人がもしもいるならその人のために、その人の救いのため、その人を愛するためにやめなさい、というのが答えです。
(23-28)
23,「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが益になるわけではありません。「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが人を育てるとはかぎりません。
24,だれでも、自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求めなさい。
25,市場で売っている肉はどれでも、良心の問題を問うことをせずに食べなさい。
26,地とそこに満ちているものは、主のものだからです。
27,あなたがたが、信仰のないだれかに招待されて、そこに行きたいと思うときには、自分の前に出される物はどれも、良心の問題を問うことをせずに食べなさい。
28,しかし、だれかがあなたがたに「これは偶像に献げた肉です」と言うなら、そう知らせてくれた人のため、また良心のために、食べてはいけません。
僕らも迷ったら「どちらが神様と人を愛するか」「どちらが神様の栄光を表すか」で考えれば大丈夫です。
(29-33)
29,良心と言っているのは、あなた自身の良心ではなく、知らせてくれた人の良心です。私の自由が、どうしてほかの人の良心によってさばかれるでしょうか。
30,もし私が感謝して食べるなら、どうして私が感謝する物のために悪く言われるのでしょうか。
31,こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
32,ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、つまずきを与えない者になりなさい。
33,私も、人々が救われるために、自分の利益ではなく多くの人々の利益を求め、すべてのことですべての人を喜ばせようと努めているのです。
相手がイエス様に感謝し、神様に感謝するように、つまずきを与えないために、僕らは生活スタイルも好みも神学的な強調点もコントロールすることができます。今も野菜しか食べない人もいるし、教会のスタイイルも作法も色々です。僕らはすぐに他人を裁き、見下し、自己主張、自己義認をしがちですが、大事なのはそこではなくて、相手が神様を賛美し感謝することです。それが主の栄光です。今日も全てが神様のためです。何をするにも自由です。そして、それは神様の栄光、神様への感謝、神様への愛を表す自由です。ハレルヤ!
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