2023年7月2日日曜日

1コリント1.10-25「十字架のキリストに戻ろう」

 1コリント1.10-25「十字架のキリストに戻ろう」


コリント教会はいろんな問題が噴出していました。分裂、分派。そして、5章になると特に淫らな性行為、神様を知らない人たちよりももっと淫らだと書かれています。次に結婚、離婚問題、そして、次には礼拝が秩序がなく、それぞれ勝手に好きなことを言って礼拝がぐっちゃぐちゃの混乱状態にあると問題。聖餐式がお腹が空いたから食べて、ワインを飲むだけの、秩序のない飲み会になってしまった問題。


その全ての問題の原因は、十字架につけられて、自分を捨てて、誰よりも低くされ、殺されるまで自分を捨て、そうやって愛し取り戻してくださったことを忘れているからだ、と言います。今日のメッセージを要約すると、十字架のキリストに戻ろう、十字架のキリストを誇ろう、と言うことです。


私たちも同じように、妬み陰口悪口、分派、淫らなこと、結婚離婚、たくさんの問題を抱えています。それが教会です。教会のあの罪は放置していいのか?と思う場面、皆さんももう出会っているかもしれないし、すでに悩んでるかも知れません。それでも、コリント人への手紙は私たちへの希望です。神様は諦めてません。



●コリント教会の派閥問題の実態


問題だらけの教会の中で最初に出てくるのは派閥争い問題です。


10,さて、兄弟たち、私たちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたにお願いします。どうか皆が語ることを一つにして、仲間割れせず、同じ心、同じ考えで一致してください。


仲間割れしていました。一致してください、語ることを一つにしてください、と言います。

一致とか、同じことを語る、と聞くと表面だけみると、なんかコンビニの店員さんの対応マニュアル、どの店員さんも同じように喋る、とかコールセンターの担当者がどの担当者も同じように喋るとか、そう言う意味ではないです。「語ることを一つにして」これは、キリストの十字架を中心にして、あの犠牲を思い出し、十字架を伝える、と言うことです。


具体的には後で詳しく言いますが、十字架の言葉です。17節「キリストの十字架が空しくならないように」18節「十字架の言葉は滅びるものたちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です」23節「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます」


同じことを語り、同じ考えになってください。これは、なんとか先生がどうだ、あの人がどうだ、と言うことよりも、十字架のキリストを思い出してください、十字架のキリストを思い浮かべて、その犠牲の大きさ、愛を思い浮かべて語ってください、と言うことです。


11,私の兄弟たち。実は、あなたがたの間に争いがあると、クロエの家の者から知らされました。

12,あなたがたはそれぞれ、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケファに」「私はキリストに」と言っているとのことです。


なぜバラバラなのか、なぜ互いに批判し、嫌い、攻撃するのか。それは十字架のキリストをあの犠牲を思わないからです。

今も変わらない、教会によくある話です。お気に入りの先生がいるのはいいと思います。問題は、それが派閥になり傷つけあっていたことです。そして、その問題の根っこはキリストの十字架を忘れて、それぞれの先生の魅力や能力が中心になっていたこと。


教会が派閥に別れてウチらのグループが一番正しい、他はおかしい、と言い合うやつです。いろんな教団があったり、いろんなタイプの教会があっていいと思いますが、問題は、それが憎しみ、妬みあい、嫌いあっていたことです。



●それぞれの先生自慢。


確かに、コリント教会を指導した先生たちはすごい人たちです。2000年経っても有名なレジェンドたち。


12,あなたがたはそれぞれ、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケファに」「私はキリストに」と言っているとのことです。



1「私はパウロにつく」


パウロ先生素晴らしい先生で、誰よりも聖書に通じていた人です。当時最高の律法の学者であったガマリエルと言う先生から旧約の律法を教わったと書かれています。(使徒22章)誰もが尊敬するガマリエル先生の直接の弟子。言葉のチョイスがうまくてその手紙は重みがあって力強いと言われてます。(2コリント10章)その手紙は霊感された神の言葉と言われて、今も、聖書そのものとして用いられています。「私はパウロにつく」と言う人たちがいたのは当然です。


でも、パウロ、本人は伝えたいのはそこじゃない、といいます。学歴とか聖書知識の豊富さとか、文章がうまいとか、そういうことは中心ではないです。


19,「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りある者の悟りを消し去る」と書いてあるからです。

20,知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。


パウロ先生からバプテスマを受けた、と言って自慢している人たちがいました。それはパウロが望まないことでした。パウロは自分の名を伝えたいのではなく、伝えたかったのは、惨めな姿で十字架につけられたキリストですと何度も言います。パウロを伝えているのではない。



13,キリストが分割されたのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によってバプテスマを受けたのですか。

14,私は神に感謝しています。私はクリスポとガイオのほか、あなたがたのだれにもバプテスマを授けませんでした。

15,ですから、あなたがたが私の名によってバプテスマを受けたとは、だれも言えないのです。


フォロワーを増やすこととか、再生回数を増やすことが目的ではなく、キリストを伝えることが目的です。しかもそれは、スーパーヒーローのキリストではなく、十字架にかかって私の罪の呪いを受けてくださり、惨めな姿になって赦し愛してくださったキリストです。


パウロ先生の知恵、知識、素晴らしい、と言う人に、それは無駄なこと、愚かなことだ、だとはっきり言います。


PPTなし。

20,知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。


(PPTなし)

23,しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。


人間の知恵とか力で、神様を知るという事はないからです。人間の魅力とか能力が誇りとならないようにしてくれたのは神様の知恵です。



21,神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。


神学校に行ったら神様をよく知って成長する人になるかというと、それはありません。神学校も用いられるけど、神学校が素晴らしいのではなく、十字架のキリストを知ることで神様を知ります。神様は全てを犠牲にして愛してくださる方です。ヘブル語をマスターしたら、神様をよく知って救われますか?それも用いられるけど中心ではありません。21「この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。」じゃ、どうすれば神様を知るのですか?彼は答えます。

「それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。」



宣教のことば愚かさって何?と思います。説教が愚かで頭の悪そうなだったらいいのか?と言うことではなくて、宣教の言葉の愚かさは23節に書かれています。


23,しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、


宣教のことばの愚かさ、とは、十字架です。あの惨めになって、人から捨てられ、神様からも捨てられて貼り付けになったキリストです。人から見たら、汚くて醜い話、愚かな話です。これを通して、信じる人は救われる、これが神様の方法です。「宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。」


22,ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。


ユダヤ人はしるしを要求します。このしるし、は後で説明しますが、素晴らしい奇跡的な体験のことです。

ギリシア人は知恵を追求します。素晴らしい言葉、素晴らしい学び、哲学、美しく論理的なことばを追求します。

だからパウロとアポロは人気があったと思います。まさに、素晴らしい言葉、論理的な言葉が与えられている先生たちです。

でも、次の行はそれを否定します。


23,しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。



僕が卒業した聖書宣教会と言う神学校は当時、日本の神学校の中では一番勉強すると言われていたそうです。先生たちの多くは聖書を原文から研究して日本語に翻訳して作っている学者たちです。そして、そこの卒業生が聖書宣教会こそ日本ではトップクラスの神学校だと誇らしげに言っているの聞いたそうです。当時校長先生だった内田和彦先生が、それを聞いて言いました。本当に恥ずかしい。聖書の教えと逆のことを誇っている卒業生がいる。教えてきたことと反対のことを自慢している卒業生のことを聞いて、私は本当に恥ずかしいです。がっかりです。


20,知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。


2「私はアポロに」


アポロ派の人はどうだったでしょう。使徒の働き18章を見るとアポロの凄さがわかります。


24 さて、アレクサンドリア生まれでアポロという名の、雄弁なユダヤ人がエペソに来た。彼は聖書に通じていた。 

25 この人は主の道について教えを受け、霊に燃えてイエスのことを正確に語ったり教えたりしていた

(…中略…)

28 聖書によってイエスがキリストであることを証明し、人々の前で力強くユダヤ人たちを論破したからである。 


熱い人です。霊的に燃えている。しかも聖書に通じていて正確な情報を語ります。イエス様に反対する人たちを公然と論破することができる、最強の牧師です。この人がコリント教会を指導していました。私がそこにいたら僕は多分パウロ派ではなく、アポロ派になる気がします。文章で文字で説明するのでなく、熱いトークで教えてくれる先生です。聖書に通じているだけでなく、話はうまい。霊に燃えている。


でも、話のうまさ、議論のうまさも、それによって救われるのではないし、神の前では愚かだとさえ言います。十字架についてくださったキリストが中心であって、それによって神様を知り人は救われるのです。これが神様の力です。


20,この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。


 20節の論客、つまり議論が上手な人のことです。まさにアポロがそのような人だったと思います。でも、その人間の力を神様は愚かなものにされた、といいます。


3「私はケファに」


ペテロは、3年以上イエス様と1番近くにいて、イエス様の栄光を、光り輝く姿に変わった時も近くでそれ見た人です。イエス様の奇跡に時々参加している人です。死人を蘇らせた時もペテロはすぐ近くにいました。5000人の人に給食をした時も5つのパンが増えた時も、湖の上を歩いた時も、ペテロは1番近くにいました。湖の上を歩かせてもらったこともありました。誰よりもイエス様を生でその奇跡を体験しています。

一番イエス様を体験しているのはペテロです。ペテロ先生につきたい、ペテロから学びたい、と思うのは当然です。でも、勉強はできないタイプ。もともと漁師なので、パウロのような学者ではないんです。でも、霊的な体験は誰よりも多くしてきました。聖書は、ユダヤ人は、しるしを求める、とあります。


22,ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。


「しるし」のところに※があって、欄外に「証拠としての奇跡」とあります。まさに、ペテロが体験した素晴らしい奇跡の数々、ユダヤ人たちが求めていたことです。素晴らしい霊的な体験、奇跡、それは盛り上がるし、嬉しいことです。でも、聖書は続いて言います。

つたえる中心は、そこではなくて、十字架です、と言います。あの、血だらけで鞭うたれ、のののしられ捨てられているキリストは、素晴らしい体験、霊的な体験を求める人にはガッカリし、つまずきになるでしょう。でも召され、赦された人にとっては、救いです。これが神様の方法、神様の知恵です。


誇るべきは主。体験ではなく、知恵でもなく、人間的な勉強でも知識でもなく。誇るべきは身代わりに苦しみ呪われ捨てられたキリストです。東栄教会は今日も、これからもその誘惑に会います。誰が好きなのか、誰が嫌いなのか、誰の栄光を求めるのか。私たちが誇るのは人ではなくキリストです。あの方法がよかった、これがよかった、ではなく、十字架で惨めになって赦してくださった、身代わりに苦しんでくださったキリストです。


派閥争いは、表面的には見えなくても、心の中ではよくある話です。

心が何を求めているか、です。人間的な知恵や力や体験を心の中で求めていたら、それが態度に出ます。

弱い人、何も持たない人を裁き、見下し、批判します。すごい人、魅力的な人に引かれていき、神様の願いとは違うこの世的な派閥ができ、差別ができるのが罪です。これからも僕らは、人間の知恵とか力、人の魅力や人の能力に惹かれ、人の力で救われようとする誘惑と戦い続けます。


ヤコブは言います。


ヤコブ 2:2 あなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、立派な服装をした人がはいって来、またみすぼらしい服装をした貧しい人もはいって来たとします。

ヤコブ 2:3 あなたがたが、りっぱな服装をした人に目を留めて、「あなたは、こちらの良い席におすわりなさい。」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこで立っていなさい。でなければ、私の足もとにすわりなさい。」と言うとすれば、

ヤコブ 2:4 あなたがたは、自分たちの間で差別を設け、悪い考え方で人をさばく者になったのではありませんか。


差別や人をさばくことは、キリストの十字架を忘れていることと繋がっています。


●十字架だけを誇り伝えよう


派閥を作り、他人を責め、攻撃する人は、自分の罪の大きさを知らない人です。あの十字架の姿は私たちの罪の姿です。


私は死刑になるべきだった。苦しんで呪われるのは、地獄に行くのは私だった。でもイエス様が苦しんでくださった。

自分の罪の重さがわからない人は、他の人を責め悪口を言い、争います。

十字架のキリストは人が目を背ける話です。愚かな話です。

世界が求めているのはもっと綺麗な話、成功する話です。でも教会が伝えるべきは、惨めな十字架のキリストです。


18,十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。


あの呪いと苦しみは、本当はあなたが受けるはずの惨めな姿だった、という話です。


一番上におられるはずの神様が一番下になってくださいました。

私は、皆さんはキリストと一緒に十字架につけられたとみなされ、私への神の怒りは完了しました。もう、罪と欲に縛られる自分は死にました。処刑は終わりました。そう思いなさい、と聖書は言います。


ローマ 6:8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。


今私が生きているのは、この世の評価や栄光を求める私でなく、キリストの栄光を求め、キリストと一緒に死んだものとして、神様に仕え、人に仕える新しい自分です。


今日の箇所は、あなたはキリストと一緒に死んだのに、あの十字架が示されたのに、いまだに何を誇ろうとしているのですか?問います。人間の知恵ですか?好きな先生の自慢ですか?話のうまさですか?霊的な体験ですか?お金や能力ですか?自分の正しさですか?


22,ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。

23,しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、

24,ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。


人は上に行こうとします。キリストは下に行こうとします。

自分のプライドとか、知恵とか考えとか好みとか捨てて、キリストと一緒に死んだ人は、キリストと一緒に全てを受けます。

神様からの知恵と義ときよさを受けるのです。キリストと一緒に栄光も与えられます。信じない人には愚かな話です。でも信じる人には神の力です。


悪魔はこの世の繁栄を求めさせます。自分が認められ、自分が正しいとされ、自分の学んできたことが評価されるようにさせます。

悪魔の最初の誘惑は


創世記3.5

あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになる」


だから、自分の知恵、自分の力、自分の栄光を求めよ、と誘惑します。そのために争い、他の人を攻撃し、他人のせいにし、自分は正しいと言わせます。これが誘惑です。キリストの福音ではありません。


栄光は神様にだけです。賛美は神様にだけです。伝えるのは十字架につけられたキリストです。この世から愚かでしょう。でも、教会にとって十字架こそが一番大事なメッセージです。


※東栄の例


東栄に派閥問題があったかどうか。ちょっと振り返りをしたいと思います。僕は東栄教会はできて50年。今、50周年記念誌を作る準備が始まっていて、僕も東栄に来て30年、色々なことがあったのを思い出します。


 1987年に阿部先生が牧師として赴任されて、それ以来2001年まで14年間主任牧師でした。僕も25歳の時からこの教会に来て、ずっと阿部先生に育てていただきました。自分の牧師であり、自分の師匠です。そういう歴史の中で、2002年から僕が主任牧師になりました。リーダーが変わるときに、よく起こるのが教会の分裂です。コリント教会と同じように誰々先生につく。いやこっちの先生につく、ということがよく起こります。今も牧師交代をした周りの教会でもよく聞く話です。その時に、教会が問われて、試されることは、その教会の皆さんは牧師にくっついていたのですか、それともキリストについていたのですか?ということが問われるんですね。


東栄教会の皆さんは阿部先生が育ての親であり、阿部先生が経験もあり、人格的にも練られた人です。しかも奥様の芙美子さんも素晴らしい指導者です。そんなベテラン牧師の前で、30歳以上も年下の僕が今日から主任牧師です、といったところで、どうしてもみんな阿部先生の指導を求めます。当たり前です。そっちのがいいに決まってます。僕自身もそう思います。


阿部先生もお聞きしたんですけども、東京にいた時、牧師が交代することで、教会が分裂してしまった、とか多くの人が出て行って混乱したと言う経験をなさったそうです。


そこで、阿部先生どうしたか、ですけども、毎週水曜日の祈り会に出席されて、私が、主任牧師である遠藤牧師の邪魔をしないで、へりくだって、祈ってください、私も教会の皆さんも遠藤牧師を支えていけるように祈ってください、自分が謙って、邪魔しないように、って続けたんです。当時北海道聖書学院の学院長だった小林先生は阿部先生にいったそうです。協力牧師、強い方の強力牧師にならないでくださいね、と。


神様は、祈りに答えてくださる方で、本当に守られて、大きな分裂とか大きな混乱はなかったと思います。が、何人かの方は出ていった方もいて傷ついた方もいらっしゃると思います。神様の恵、憐れみがありました。私たちも祈りましょう。人につくのでなく、人が崇められるのでなく、この世の魅力でなく、力でなく、知恵でなく、能力のある指導者ではなく、十字架の主を崇め、それを伝えましょう。


ここで、阿部先生の対応が素晴らしかった、阿部先生はそうじゃないって言うでしょう。答えは31節。


31,「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。


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考えてみましょう。


①東栄教会の中にどんな派閥があるか、また、あなたの心の中ではどのように人を評価し裁いているか考えてみましょう。その評価基準は何でしょう


②あなたの評価基準は主の前で愚かなものでしょうか。それとも価値のあるものでしょうか。


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