1コリント2章
コワイ、無理そう、力が出ない…などなど、自分にガッカリな時こそ御霊の力が現されるチャンスです。御霊を受けた人は上からちょうど良く、ちょうどいい分の力も知恵も与えられる、という新しい生き方に入ります。
僕らは子どもの時から自分の力が、自分の知恵がつくように、自分が自分が、自分で自分で、と言われ続け、それができないとダメなことのように教えられてきました。ところが、力が出ないはずなのに御霊によってさせてもらえます。パウロでさえ恐れ、弱くおののいていました。宣教なんてできないよ…と思っていたようです。ところが、与えられ、できちゃいました。人の知恵でもなく力でもありません。
(3-5)
3,あなたがたのところに行ったときの私は、弱く、恐れおののいていました。
4,そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。
5,それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだったのです。
パウロが宣教して、コリントの町で多くの人たちがイエス様を信じました。でも、それは「人間の知恵によらず、神の力によるもの」です。(5)そのために本人は弱く、恐れおののくようにさせてもらいました。もし自信満々だったら、神様の知恵と力、と言わなかったでしょう。弱くされたのは「御霊と御力の現れによるもの」となるためです
数年後にこの教会は「パウロ先生のおかげ!」「私はパウロ派」「いや私はアポロ派」「私はケファに」と言って御霊ではなく指導者の力を重視するように戻ってしまいました。(1章10-12節)これが僕らの現実です。御霊より人の力、御霊より人の知恵を求めてしまうのが肉の弱さです。
弱い時こそ御霊の時です。わからない時こそ神様の時です。御霊が教えてくださいます。心貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものです。(マタイ5.3)御霊を受けてる人は神様の心がわかります。反対に御霊を受けていない人は神様がわからず、人間の知恵や力ばかりを求めます。
(12-16)
12,しかし私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神が私たちに恵みとして与えてくださったものを知るのです。
13,それについて語るのに、私たちは人間の知恵によって教えられたことばではなく、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばによって御霊のことを説明するのです。
14,生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。
15,御霊を受けている人はすべてのことを判断しますが、その人自身はだれによっても判断されません。
16,「だれが主の心を知り、主に助言するというのですか。」しかし、私たちはキリストの心を持っています。
今日、疲れている人、恐れている人、自分にガッカリしている人、その人は幸いです。今日は御霊の現れの日です。自分の力や知恵は小さく、脆く、アテになりません。それでオッケーです。知恵がなくて大丈夫です。知恵と力は神様のものです。体重を預けましょう。人生を預けましょう。自分を空にして、与えられた分を神様に使っていただきましょう。「私たちはキリストの心を持っています。」(16)人にはわからない、新しい御霊の心が与えられています。自分は弱くて愚かで空っぽで大丈夫です。ハレルヤ!
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