2023年8月28日月曜日

士師記18章

 士師記18章


僕ら人間は神をコントロールしたがります。神様が本当に神様ならば、人が作ったりコントロールしたりできない方です。だのに、人間は神より上になりたがります。口では「神さまは…」とか言いますが、実際は自分の損得が最優先で、そのために神様を動かそうとします。聖書は「神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えた」と言います。(ローマ1.25)

ミカという人は自分用の神の宮を作り、自分用の偶像を作り、拝んでいました。主の律法も使えるところだけ採用して、祭司が身に着けるエポデ(詳しくは出エジプト28章)も作りました。唯一の主と周りの国々の偶像がミックスされたような独自の宗教みたいなものです。聖書は「それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」と言います。(17.6)



(17.5-6)

5,このミカという人には神の宮があった。彼はエポデとテラフィムを作り、その息子の一人を任命して、自分の祭司としていた。

6,そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。



さらにミカは若者を雇い、祭司にします。聖書の教えとは違う非公認の「マイ祭司」です。「給料を出すからウチの幸せのために祭司をやってくれ」という感じです。この若者もまた、簡単に同意して引き受けます。(17.10-13)神様を離れた人は自分の都合、損得が全てです。お金でマイ祭司を雇ったミカも満足げです。「今、私は、主が私を幸せにしてくださることを知った。レビ人が私の祭司になったのだから。」と言っています。(17.13)


ダン族は定住地を探していました。神様はすでにダン族にくじで場所を定め与えてくださっていました。ですが、彼らは敵を恐れてそこを手に入れませんでした。(士師記1.34)神様がくださった土地よりももっとラクに手に入る場所を探していました。土地を探す途中にミカの家の祭司に神様のみこころを伺います。



(5-6)

5,彼らは言った。「どうか神に伺ってください。私たちのしているこの旅が、成功するかどうかを知りたいのです。」

6,その祭司は彼らに言った。「安心して行きなさい。あなたがたのしている旅は、主がお認めになっています。」



この祭司は主に祈りもせず、主を恐れもせず、主に聞こうともしません。神様の場所を無視するダン族を「あなたがたのしている旅は、主がお認めになっています。」と簡単に祝福します。この祭司はニセもので、人に気にられ、喜ばれるためにやってるだけです。神様は不在の人ですが、神様の名を利用して生活しています。バイトで結婚式場で牧師の役目を演じてる人のようです。この後、ダン族600人はミカの家にあった彫像も鋳造も奪い、この祭司もダン族の祭司として連れて行きます。



(17-20)

17,あの地を偵察に行った五人の者たちは上って行き、そこに入り、彫像とエポデとテラフィムと鋳像を取った。祭司は、武具を着けた六百人の者と、門の入り口に立っていた。

18,これら五人がミカの家に入り、彫像とエポデとテラフィムと鋳像を取ったとき、祭司は彼らに言った。「何をしているのですか。」

19,彼らは祭司に言った。「黙っていなさい。手を口に当てて、私たちと一緒に来て、私たちのために父となり、また祭司となりなさい。あなたは一人の人の、家の祭司となるのと、イスラエルで部族また氏族の祭司となるのと、どちらがよいのか。」

20,祭司の心は躍った。彼はエポデとテラフィムと彫像を取り、この人々の中に入って行った。



「祭司の心は躍った。」とあります。(20)個人宅の祭司から、もっと大きなダン族全体への祭司への出世です。この人は神様より自分の立場、栄光、権力優先です。ダン族は「私たちと一緒に来て、私たちのために父となり、また祭司となりなさい。」と言いました。(19)

今もよくある話です。田舎の小さな教会の牧師をやるより、大きな教団のエラいポジションにつきたい、もっと良い給料、待遇が欲しい思う誘惑があります。祭司とか牧師と言われる人も出世したい会社員と本性は同じです。


ミカは鋳造や彫像を作り、「私が造った神々」と呼びます。(24)神様を作り、コントロールしたがります。それに仕える祭司もまた、自分が上に行きたいと思って周りが気に入ることを話します。士師記は神様と離れた僕らの本性を現しています。イエス様は下に下へと行き、神様に仕え、人を恐れず真実を話す方、それでいてへり下って隣人に仕える方です。そのイエス様の御霊が僕らの中に住んでおられます。肉は御霊に対立します。肉は神様よりも自分を上にしたがり、神様をコントロールしたがり、自分の立場や損得だけで発言します。現代の教会もその指導者たちもこの戦いの中にあります。「人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になる」と聖書は言います。(2テモテ4.3)また、預言者エレミヤは警告しています。


(エレミヤ6.13-14)

なぜなら、身分の低い者から高い者まで、みな利得をむさぼり、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行なっているからだ。彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている。



自分に聞いてみましょう。神様を第一にしているのか、それとも自分の都合に仕えているのかと。今日もう一度主の前に自分を手放しましょう。栄光と主権は神様のものです。人を恐れずに真実な神様の言葉の前にへり下り、明け渡す日でありますように。ハレルヤ!




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