詩篇21篇
意外と知られてないんだけど、聖書はクリスチャンのことを「王になる」と繰り返しています。教会で逆のことを良く聞きます。「私たちはしもべです」「自分は捨てます」「自分の栄光ではなく主の支配と栄光を…」などなどです。もちろんそれは真理であり聖書の教えです。だから僕らは「王となる」と聞くと「ん?」と思います。正解はどっちでしょう。答えは→両方です。
クリスチャンは「王である祭司」(1ペテロ2.9)と呼ばれています。今は苦しみがあるけど、「耐え忍んでいるなら、キリストとともに王となる。」(2テモテ2.12)と約束され、黙示録では「キリストとともに、千年の間王となった。」とあります。(黙示録20.4)イエス様がお手本です。イエス様は自分を捨て、弟子の足を洗い、罪ある者のように殺されるまでへりくだってくださいました。でも、その忍耐の先に復活があり、栄光があります。イエス様は今、全ての栄光と権威をお持ちの王の王、主の主です。そして、同じように、僕らも自分を捨てて主に従うときに、その先に王としての栄光と祝福が約束されています。今日の箇所は神様が王に冠を与え、勝利を与え、祝福と幸いと栄光を与えてくださることを楽しみ、喜ぶ詩篇です。
(1-6)
1,主よあなたの御力を王は喜びます。あなたの御救いをどんなに楽しむことでしょう。
2,あなたは彼の心の望みをかなえ唇の願いを退けられません。セラ
3,あなたは幸いに至る祝福をもって彼を迎え頭に純金の冠を置かれます。
4,いのちを彼はあなたに願いあなたは彼にそれをお与えになります。いつまでもとこしえまでも限りなく。
5,御救いによって彼の栄光は大いなるものとなり威厳と威光をあなたは彼の上に置かれます。
6,あなたはとこしえに彼に祝福を与え御前で喜び楽しませてくださいます。
ダビデは何年もサウル王に悩まされ、苦しめられ、逃亡生活を強いられました。王様になってからも息子に裏切られて逃げるしかなかったような苦しみでした。ダビデが乗り越えることができたのは、ガマン強い人だったからではありません。必ず神様が勝利と栄光を与えてくださる、という神様からのみことばを約束を信じていたからです。揺るがない理由は主に信頼しているからです。
(7)
王は主に信頼しているのでいと高き方の恵みにあって揺るぎません。
神様はダビデの願いを叶え、豊かな祝福と栄光を与えてくださいました。それは、神様の王国の栄光の現れでした。同じように、僕らが神様の栄光と神様のご支配を求めることは、僕らの人生に必要なものが全部与えられ、僕らにも力と栄光が与えられ、それゆえに神様を誉め称えることに繋がります。イエス様は言われます。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」(マタイ6.33-34)
僕らも王としての栄光が用意されています。たとえ地上では敵に殺されるだけであっても復活します。悪がはびこり、敵がどんなに繁栄して笑っていても滅ぼされます。大逆転は確定事項です。
(8-12)
8,あなたの御手はすべての敵を見つけ出しあなたの右の手はあなたを憎む者を見つけ出します。
9,あなたの現れのときあなたは彼らを燃える炉のようにされます。主は御怒りによって彼らを吞み尽くし火は彼らを食い尽くします。
10,地の上から彼らの裔を人の子らの中から彼らの子孫をあなたは滅ぼしてしまわれます。
11,彼らがあなたに対して悪を企て計略をめぐらしても成し遂げられません。
12,あなたは彼らが背を見せるようにし弓弦を引き彼らの顔を狙われます。
今日も神様を信頼しましょう。僕らの力でなく、神様の力と栄光によって勝利が確定しています。王として栄光を受けることになっています。主に信頼しましょう。今、悲しく辛いことがあっても大丈夫です。貧しくても大丈夫です。いや、貧しい者こそ幸いです。(マタイ5.3)自力で祝福されるのではなく、神様100パーセントだと知っている人だからです。神の国はその人のものです。天では栄光と祝福が必ず用意されています。「主よあなたの御力のゆえにあなたがあがめられますように。大いなる御力を私たちは歌いほめ歌います。」(13)栄光が祝福が用意されています。信頼しましょう。ハレルヤ!
(2コリント6.19-10)
死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。
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