⚫️聖書 士師記2.6-3.2
⚫️タイトル 主を求めるための試練
お母さんが教会に行きなさいってうるさいので、小学生の頃まではそんなものかと思って教会に行きます。行かされています。でも、中学校に入って部活が忙しくなってお母さんもあまりガミガミ言わなくなると、やっと行かなくていいことになります。これはよくある話であるし、僕自身の体験です。中学校吹奏楽部に入って教会に行くのをやめました。
自分と神様の関係がないまま、ただ、親に連れていかれているだけなら、表面的には礼拝に参加いい感じに見えたとしても、実際に神様が生きて働いていて会話して、交わっている関係はありませんでした。親が強く言わなくなれば、神様とも離れます。よく聞く話だと思います。
KGKであんなに熱心に見えた人が就職した途端に神様と離れた、と言う話を聞きました。実は神様と生きた交わりが中心ではなく仲間といるのが楽しくて関係でつながっていた、と言うことです。
強くて厳しい牧師さんが教会を指導していた時は良かったんだけど、その先生が転勤でいなくなったり、天に召されると、途端に教会が分裂したり、散り散りになり、みんな神様から離れていくこともあり得ます。みんな実は神様と会話する関係ではなくて、その牧師さんとの繋がりで集まっていたのであって、本当に神様が今日も生きて僕に語ってくださっている、一緒に生きている、という信仰も感謝も賛美、感動もなかったことが明らかになる、と言うこともあると思います。
だから牧師交代とか、KGKから社会人へとか、転勤とか結婚とか、環境が変わる時に信仰が問われます。と言うか、まるでふるいにかけられるように、本当にイエス様の十字架に感動して感謝してつながっていたのか、それとも他のことで集まっていたのかどうかがわかります。
自分に聞い見てみると分かります。自分が今日神様を礼拝しているのは、神様との会話でしょうか。自分のために命を捨てて今日も愛してくださるイエス様の福音への感謝と感動でしょうか。それとも誰か人からのプレッシャーとか、役目とか義務とか自分の都合のためでしょうか。
⚫️指導者がいる時だけの信仰。
6,ヨシュアが民を送り出したので、イスラエルの子らはそれぞれ土地を占領しようと、自分の相続する地へ出て行った。
7,ヨシュアがいた間、また、主がイスラエルのために行われたすべての大いなるわざを見て、ヨシュアより長生きした長老たちがいた間、民は主に仕えた。
その間「だけ」かな?と思わせる言い方です。ヨシュアとその世代の人たちが死んだ後どうなったでしょう。
10,その世代の者たちもみな、その先祖たちのもとに集められた。そして彼らの後に、主を知らず、主がイスラエルのために行われたわざも知らない、別の世代が起こった。
聖書は、神様を知らない世代が起こった、と言います。どうなるか?予想通りのことが起こります。
11,すると、イスラエルの子らは主の目に悪であることを行い、もろもろのバアルに仕えた。
12,彼らは、エジプトの地から自分たちを導き出した父祖の神、主を捨てて、ほかの神々、すなわち彼らの周りにいるもろもろの民の神々に従い、それらを拝んで、主の怒りを引き起こした。
彼らは苦しみます。神様が言われた通りです。その苦しみについては、この後お話しします。
今話しているのは、指導者がいるときだけの信仰だった、ということです。神様との関係によって祝福されていることを、次の世代に伝えていなかったことがわかります。
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シンガポールで参加した学び会で講師の先生が言いました。私は教会の評価は人数ではないと思います。また、集まっている人たちの霊的な成熟度だけでもないと思います。私が教会をどう評価するかは、次の世代がどのくらい成熟するかにかかっています。と言っていました。だから教会の評価は今は分かりません。次の世代、その次の世代になった時に、次の世代に教え伝えていけるような人たちに育っているかどうか、孫の世代、ひ孫の世代が霊的に成熟するような教会形成をするかどうかが、評価基準だと思います。とのことでした。
最近新しい人と始めている学びのテキストはフォローイングジーザス。副題に「弟子を作る弟子を育てる」
つまり、自分だけ学べばいいのではなく、次の世代が神様を知るために伝えることができる人を育てるためのテキスト、と言うことです。
聖書は言います。
2テモテ 2:2
私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。
私、はパウロ。聞いた人はテモテ。テモテは次の人に委ねます。委ねたれた人は「他の人にも教える力のある忠実な人」です。つまり、このたった一節に4世代が描かれていることがわかります。
新約聖書に限らず、神様は出エジプトの時代から何度も、これを子どもたちに、よく伝えなさい、教えなさい、と繰り返しています。
毎年毎年春になるとイスラエル人たいは過越の祭り、と言うのをします。これは、神様がエジプトから救い出してくださったことを思い出す祭りです。神様がエジプトに災いを下したこと、海が分かれたこと、海の中の道を通って脱出したこと、その後、何もない荒野でしてくださったことを追体験するため種無しパンを食べます。その食事では必ず子どもたちが、大人に質問することになっています。
出エジプト 12:26-28
あなたがたの子どもたちが『この儀式はどういう意味ですか。』と言ったとき、
あなたがたはこう答えなさい。
『それは主への過越のいけにえだ。
主がエジプトを打ったとき、主はエジプトにいたイスラエル人の家を過ぎ越され、私たちの家々を救ってくださったのだ。』」
毎年毎年、子どもたちに神様が良くしてくださったことを伝えるように命令されていましたが、実際には、ヨシュアの世代で終わってしまっていました。次の世代には神様の素晴らしさが伝わってなかったようです。今日、聖餐式があります。これもまた、キリストがしてくださったことを追体験して覚え続けるための神様の方法です。カタチだけになってはいけないものです。
10主を知らず、主がイスラエルのために行われたわざも知らない、別の世代が起こった。とあります。
彼らは次の世代に伝えることをしなかったのか、伝えてもカタチばかりだったのか、とにかく次の世代は神様を知らない、主がしてくださったことをも知らない、と聖書は言います。そして、その世代は苦しむことになります。
11,すると、イスラエルの子らは主の目に悪であることを行い、もろもろのバアルに仕えた。
12,彼らは、エジプトの地から自分たちを導き出した父祖の神、主を捨てて、ほかの神々、すなわち彼らの周りにいるもろもろの民の神々に従い、それらを拝んで、主の怒りを引き起こした。
主を捨てることは平安や祝福を自分から捨てることです。主が全てを満たす方です。主が祝福の源、命の源です。主を捨てることは、携帯電話が充電器を捨てるよう。一生充電できない携帯は死んでいるように、神様との交わりがなければ死んでしまいます。神様こそいのちのコンセント、祝福のコンセントのようです。
でも、彼らは主を捨て、主を切りました。そして、主ではなく偶像が自分達に豊穣をもたらすと思ったようです。コンセントをやめて、モバイルバッテリーの方の方がよく見えたようです。
バアルやアシュタロテという偶像は、これを拝むと豊作になる、と言われていました。罪というのは、神様を切ることです。神様を切って、他のものと繋がりたがるものです。他のもので幸せになろうとすることです。神様を捨てることは、祝福とか命の源を自分から断ち切ることです。主を捨てて、主を断ち切って他のもので幸せになろうとするけど、そこには祝福はありません。自分たちを祝福してくれると思った偶像は嘘でした。この後彼らは大変な苦しみにあいます。
神様を知ることは、自分たちの世代だけが満足するためではありません。神様は何度も次の世代に教えなさい、伝えなさい、と繰り返しています。
詩篇78篇
4,それを私たちは息子たちに隠さず後の時代に語り告げよう。主の誉れを主が行われた力ある奇しいみわざを。
5,主はヤコブのうちにさとしを置きイスラエルのうちにみおしえを定め私たちの先祖に命じてその子らに教えるようにされた。
6,後の世代の者生まれてくる子らがこれを知りさらに彼らがその子らにまた語り告げるため
単なる情報伝達ではなく、彼らが神様と生きた関係を愛の関係を保つために僕らは伝えます。教えます。祈ります。次の世代のためにです。いつまでも、牧師が教える人、私たちは習う人、聞く人、で終わってはならないのです。
次の人に伝えるように、次の世代がまた次の世代に教え育てることができるように、と言うのが神様の願いです。
牧師だけが教える人でなく、みんなが神様の愛に感動して次の人も神様を愛する人になるように教え伝えていける、そんな教会形成を目指したいです。
ヨシュアの世代はそれがストップしてしまいました。神様への感動も感謝もそこで終わってしまったおかげで次の世代は大変苦しみます。
⚫️主に求めるための苦しみ
彼らは苦しみます。
13,彼らが主を捨てて、バアルとアシュタロテに仕えたので、
14,主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らを略奪する者の手に渡して略奪されるままにし、周りの敵の手に彼らを売り渡された。彼らはもはや、敵に立ち向かうことができなかった。
15,彼らがどこへ行っても、主の手は彼らにわざわいをもたらした。主が告げ、主が彼らに誓われたとおりであった。彼らは大いに苦しんだ。
偶像を拝むならあなたは苦しむ、と何度も言われていました。
だからその通りになりました。よく読むと、これみんな神様が誓った通り、言った通りになったとあります。「彼らは大いに苦しんだ。」
主を捨てるなら苦しむ。自分から苦しむ道を選んで、自分から神様の怒りを受ける道を選んでいる。神様のみことばは実現するので、言われた通りに、お望み通りに苦しみます。
この間違いを教えるために彼らは大きな苦しみを経験する必要があり、略奪されました。
しかも、この苦しみは主を求めるための苦しみです。神様が言っていた通りだと学び、もう一度神様に戻るための苦しみです。それでも神様の憐れみはなくなりません。
16,そのとき、主はさばきつかさを起こして、略奪する者の手から彼らを救われた。
18,主が彼らのためにさばきつかさを起こしたとき、主はさばきつかさとともにおられ、そのさばきつかさが生きている間、彼らを敵の手から救われた。これは、圧迫し、虐げる者を前にして彼らがうめいたので、主があわれまれたからである。
さばきつかさ、というのがタイトルになった士師という人です。軍事的な、政治的な指導者です。神様はそのようなリーダーを起こして助けてくださいます。
でも、一時的です。助けて、苦しい、と言ってうめいたときに神様は助けをくださいます。それでもそれは一時的で、彼らは助けてくださった神様に感謝をせず、本当に神様に繋がったのではなく、指導者さばきつかさが死ぬと、再び神様を切り離して、偶像に行きます。
19,しかし、さばきつかさが死ぬと、彼らは元に戻って先祖たちよりもいっそう堕落し、ほかの神々に従い、それらに仕え、それらを拝んだ。彼らはその行いや、頑なな生き方から離れなかった。
彼らが本当に神様につながったのでなかったことがわかります。さばきつかさによって助けてくださいました。確かに神様の憐れみや助けはありました。でも、彼らが自分から神様につながったのではありませんでした。ただ、指導者によって救われただけです。また彼らは堕落します。何度も何度も同じことを繰り返すのが士師記です。
僕らにも神様は問いかけています。
あなたが神様に良くしてもらっているのは指導者を通してなのか、それとも本当に神様と会話しているのか、神様を愛する親しい関係を作っているのか、と。
毎回学びのたびに言っているのでまたか、と思われるかもしれません。「この学びは、自分で神様の言葉を聞き、直接神様と関係を作り、喜んで生きるようになるのが目標です。」
僕らは弱く流されやすいものです。そして世界はどんどん変わります。教会のスタイルも変わります。でも、状況に振り回されるのでなく、大事なのは自分と神様との関係です。それさえできていれば、状況が変わっても大丈夫です。
自分に聞いてみましょう。あなたの信仰は状況が変わっても、指導者がいなくなっても耐えうるものでしょうか。環境が変わったら無くなっちゃうようなものでしょうか。僕らは弱いものです。だからこそ神様との関係を求めましょう。人に依存した信仰生活なら脆くて弱いものです。
彼らは指導者が死ぬと堕落し、神様から離れ、また苦しみ出します。
何度もこのパターンを繰り返すのが士師記です。
※指導者が死ぬ→神様から離れる→苦しんでうめく→主が指導者を起こし助けられる→(最初に戻る)
苦しみや迫害は、自分が助けを求めた偶像が虚しいものであることを知るためです。学ぶためです。
23,こうして、主はこれらの異邦の民をただちに追い払うことをせずに残しておき、ヨシュアの手に渡されなかったのである。
そして、偶像ではなく本当に生きて働いておられる主の道に戻って、神様の道を守って歩むための通過点です。痛い思いをしないと、どん底の体験をしないと、本当には神様を求め続けることはできない。そのために人は絶望体験が与えられます。
問題は、峠を越えたらまた堕落することです。自分と神様の関係が未熟なままであることです。指導者によって助かるけども、やっぱり指導者を通しての救いであって、自分と神様の関係に育ってないことが問題です。
3章に入ると、敵に攻撃され、敵に苦しめられるのは彼らが信仰を学ぶためとあります。
主に叫び求めるための苦しみ。悔い改めるための苦しみです。
シンプルです。士師記は何度もその繰り返しを書いています。
3章
1,次が、主が残しておかれた異邦の民である。主がそうされたのは、カナンでの戦いを全く知らないすべてのイスラエルを試みるためであり、
2,ただ、イスラエルの次世代の者、特にまだ戦いを知らない者たちに、戦いを教え、知らせるためであった。
彼らは戦いを学ぶ必要がありました。戦いとは信仰の戦いです。神様が言われた通りになるし、神様が言われた通りにすることが正しく良いことだ、と知るための戦いです。先輩たちの戦い、ヨシュアの時代の戦いは、自分の力によらず、主の言葉の通りになる、と信じる戦いでした。本当にそのようになりました。
ある韓国のクリスチャンへの調査で、その牧師さんがその結果に嘆いていました。
一番大事なものはなんですか? 1健康 2お金 3人間関係 4信仰
戦いとは信仰を選ぶ戦いです。神様の言葉を選ぶ戦いです。
神様はイスラエル人たちにカナンの土地を与えると約束されました。1章では「すでにあなたがたに与えている。」(3)とおっしゃいます。人間から見るとまだなのに、時間を超えておられる神様から見ると、もうすでに与え終わっています。あとは、聞いた人が信じてその通りに行動するだけです。
ヨシュアの時代まではその言葉を信じて、歩み出しました。信じて、出発して、戦って、その土地を手に入れる、というプロセスが必要でした。信じることは従って行動することです。
霊的な戦いとは、神様のことばを信じる戦いです。神様を求めるという戦いことです。敵が、強くて大きいほどに、僕らは必死に神様を求めます。信仰を持って戦うことが大切です。信仰は聞くことから始まります。神様のことばを繰り返し聞きながら行動することです。
悪魔はいろんな困難を見せて「やめろ」無理だ、と言います。みなさんにとって、無理だ、やめとこう、と思うことは何でしょう。
※私たちは豊かさや安定を与えてくれるものに魅力を感じます。
手っ取り早く幸福感を得るのは食べること飲むこと。神様より大事。ある人は人に認められること、愛されること。そのことが何より優先。偶像のように求めてしまう。ある人は業績を上げること、達成することによって幸せになろうとする。
全部神様からのプレゼントだけど、神様を忘れてそれを優先するのは偶像となって行きます。
田中みちや先生は3つのGだと言いました。お金(gold)名誉(groly)異性(girl)
自分達を満たし、幸せにしてくれると思うものです。食べるもの、口にするもの、体に取り入れるもの。薬。他人からの愛。評価。自分の業績などなどたくさんあります。
誘惑のない世界に生きているのではなく、いつも神様から引き離して満足させる誘惑に囲まれています。そして、神様以外を優先するときに、神様からの平安と勝利や守りも失って行きます。
いつも神様からテストを受けています。この誘惑の中で、魅力的なものの中で神様を選ぶかどうかのテストです。
苦しみは神様を知るため、本当に心から求めるための神様の方法です。
みなさんが今受けている苦しみはなんでしょう?
苦しみは悔い改めて神様を優先するためのレッスンであることも多いです。
罪のない人は一人もいません。
人に依存するのでなく、モノやお金に依存するのではなく、本当に神様の言葉を信頼して勝利するための苦しみです。それは信仰の戦いと勝利を学ぶための苦しみです。
みなさんにとって今受けている苦しみは何でしょう。
それは神様を本気で求めるための神様から与えられた訓練かもしれません。そして、本当に信じて勝利するためのプロセスです。神様は愛する子を叱ります。
ヘブル 12:6
主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
ヘブル 12:11
すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。
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考えてみましょう。
1 次の世代が神様との生きた関係を保つため、考えを改めるべきことをあげてみましょう。
2 あなたが受けている苦しみの原因に偶像があるかどうか考えてみましょう。
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