2023年9月28日木曜日

ヨエル3章

 当たり前に朝が来て、太陽が登り、光が差し、ということがなくなる日が来ます。すでに異常気象で慌ててクーラーを買ったりしてます。…ですが、そのような対応ではどうしようもない日がきます。神様の裁きの日には人間の力や知恵は役に立ちません。その日の避けどころは唯一、イエス様だけです。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒4.12)聖書は何度も終わりの日の前には戦争や飢饉が起こり、異常気象があり、太陽も月も星も暗くなると預言しています。その時に救われるのは「主の御名を呼び求める者」だけです。「主はその民の避け所」(3.15)です。



(2章30-32)

わたしは天と地に、しるしを現れさせる。それは血と火と煙の柱。

主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。

しかし、主の御名を呼び求める者はみな救われる。


(3章15-16)

太陽も月も暗くなり、星もその輝きを失う。

主はシオンからほえ、エルサレムから声をあげられる。天も地も震える。主はその民の避け所、イスラエルの人々の砦である。



「血と火と煙の柱」(2.30)は戦争や災害や地震による荒廃です。神様は裁きを行う方です。(3章2節)全ての悪に対して裁き報復し「わたしはただちに、速やかに、おまえたちへの報いをおまえたちの頭上に返す。」と言われます。(4節)ブドウを踏み、その液が流れるように、神様は裁きと怒りで人々の血を流します。その時に僕らは自分を救うことができません。


(13-14)

鎌を入れよ。刈り入れの機は熟した。来て、踏め。踏み場は満ちた。石がめはあふれている。彼らの悪がひどいから。判決の谷には、群衆また群衆。主の日が判決の谷に近づくからだ。



その日、救われるのはイエス様のところに身を避ける人だけです。「主はその民の避け所、イスラエルの人々の砦である。」(16)イエス様だけがイスラエル人にとっても僕ら異邦人にとっても救いであり砦です。


神様の裁きの後は、はっきりと二つに分かれます。祝福された世界と呪われた世界です。喜びと安全と静かさに満ちたエルサレムを中心とした地域と、荒れ果てた土地です。神様は何度も聖書を通して「私は、きょう、あなたがたの前に、祝福とのろいを置く」と言われます。(申命記11.26、30.1、30.19など)祝福とは、イエス様のところに身を避け、イエス様の十字架の血によって赦され、きよくされ、裁きを免除されることです。それ以外に方法はありません。



(17-21)

17,「あなたがたは知るようになる。あなたがたの神、主であるこのわたしが、わが聖なる山、シオンに住むことを。エルサレムは聖なる所となり、他国人が再びそこを通ることはない。

18,その日には、山に甘いぶどう酒が滴り、丘には乳が流れ、ユダの谷川のすべてに水が流れ、泉が主の宮から湧き出て、シティムの渓流を潤す。

19,エジプトは荒れ果てた地となり、エドムは荒れ果てた荒野となる。彼らの、ユダの人々への暴虐のためだ。彼らはその地で、咎なき者の血を流した。

20,しかし、ユダは永遠に、エルサレムは代々にわたって人の住む所となる。

21,わたしは彼らの血の復讐をし、罰せずにはおかない。主はシオンに住む。」


イエス様は「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と言われます。(ヨハネ14.6)今日も人の力でなく、お金でもなく知恵でもなくイエス様に逃れましょう。避けどころは唯一、イエス様だけです。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒4.12)ハレルヤ!


2コリント6.1-12 イエス様と繋がる溢れ出る喜び

 2コリント8.1-9 イエス様と繋がる溢れ出る喜び



僕はクリスチャンじゃない時、どうせ教会なんて信者を増やしてお金を集めてるんだ、と疑っていました。そんな僕が考えが変わったのは、ボロボロの一軒家の東栄教会の昔の会堂を見たときです。阿部先生がニコニコして迎え入れてくれて、自分の書斎を見せてくれました。3畳一間の部屋でした。窓には張り紙がしてあって「触らないでください。すぐ落ちます」と書いてありました。それまで教会っていうのはお金目的でやっているんだろう、と思っていたので、この牧師はお金儲けに失敗しているのか、それとも本当にお金目的ではなく神様のことを喜んで仕えているのかもしれない、と思いました。とにかく、そのボロボロの会堂はお金中心じゃない、ということを僕に教えてくれました。


イエス様を信じて聖霊が与えられた人は、今までと考えが変わります。自分もお金がないのに、困ってる人を助けたいと思い、わずかな食糧を分け合うことを喜ぶことが本当にに起こります。これは人間の力にはよらない、神様の御霊の力です。


聖書はいつも実例で満ちています。人はくどくど説明されるより、お手本を見聞きすることで理解します。今パウロはコリント教会の皆さんに、最近本当に起こっているマケドニア地方の教会の話を紹介します。


🔴聖霊による溢れる喜び



(1-5)

1,さて、兄弟たち。私たちは、マケドニアの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。

マケドニアの教会とは、ピリピの教会、とか、テサロニケの教会とかベレヤの教会のことです。

2,彼らの満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあってもあふれ出て、惜しみなく施す富となりました。

3,私は証しします。彼らは自ら進んで、力に応じて、また力以上に献げ、

4,聖徒たちを支える奉仕の恵みにあずかりたいと、大変な熱意をもって私たちに懇願しました。

5,そして、私たちの期待以上に、神のみこころにしたがって、まず自分自身を主に献げ、私たちにも委ねてくれました。



マケドニア地方の教会はどこの教会も極度の貧しさと苦しみの中にありました。だのに、貧しいのに苦しいのに、喜びに溢れて惜しみなく他のクリスチャンを助けるために、「彼らは自ら進んで、力に応じて、また力以上に献げ」ていました


その献金も彼らの喜びも「神の恵み」だと言います。「めぐみ」とは与えられたプレゼント、ということです。人の優しさからではなく、人の正義感でもなく、自分の良心を満足させたいとか、プライドとか、そういう見せかけでなくて、神様からのプレゼントとしての恵みです。天からの「満ち溢れる喜び」とあります。それが「惜しみなく施す富となりました。」天から与えられている喜びが溢れてしまって、採算度外視の喜び、ささげものになってます。これは御霊に満たされた人たちの特徴です。御霊の実は愛と喜びです。パウロは証言します、と言っています。


🔴見える状況は困難。


この喜びは与えることの困難を超越します。1節の「マケドニアの諸教会」がどんな苦しみだったのか、どんな激しい試練だったのか、聖書は伝えています。テサロニケ教会では教会を壊すために反社会勢力からのいやがらぜ、暴動、暴力が行われていました。具体的には使徒の働き17章にあります。


テサロニケの教会での迫害


(使徒 17:5)

ところが、ねたみにかられたユダヤ人は、町のならず者をかり集め、暴動を起こして町を騒がせ、またヤソンの家を襲い、ふたりを人々の前に引き出そうとして捜した。


お金で雇われていたならずものが町中を騒がせ、クリスチャンの家を襲っています。リーダー的な人を探しては引き摺り出します。何人かは牢屋に連れて行かれます。そして、牢屋から保釈されるためにまたお金が取られたことが書かれています。


(使徒 17:9)

彼らは、ヤソンとそのほかの者たちから保証金を取ったうえで釈放した。


マケドニアの教会は苦しめられ、お金は取られ、自分らが生きのびるだけでやっとのはずでした。この町でクリスチャンとして生きるのは難しいはずです。周りから白い目で見られます。村八分、仲間はずれです。仕事も奪われて行きます。だのに聖書は言います。


(2)

彼らの満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあってもあふれ出て、惜しみなく施す富となりました。



お金はないし、毎日の嫌がらせは続き、敵に囲まれています。2節は「極度の貧しさ」「苦しみによる激しい試練」と言います。だのに、「かわいそうな私」とは思っていせん。満ち溢れる喜びで、他の仲間のために献金したい、お金を届けたい、と思って熱心にそれをしています。悲壮感がないどころか、喜びに溢れています。



(3-5)

3,私は証しします。彼らは自ら進んで、力に応じて、また力以上に献げ、

4,聖徒たちを支える奉仕の恵みにあずかりたいと、大変な熱意をもって私たちに懇願しました。

5,そして、私たちの期待以上に、神のみこころにしたがって、まず自分自身を主に献げ、私たちにも委ねてくれました。


🔴喜びによって


彼らにとって助けること、与えることは喜びです。


(2)

彼らの満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあってもあふれ出て、惜しみなく施す富となりました。


しなければならない、とか、べき、とか、せねば、という考えはありません。献金しないと罰が下る、ということもありません。動機は喜びです。御霊が与えてくださる愛と喜びです。イエス様がおっしゃった受けるよりも与える方が幸い、という新しい、この世にはない天の喜びです。


孤児院サラハウスのことを岳ちゃんから聞きました。


・サラハウスには悲壮感がありません。2年前50人だった子どもたちは80人へ増えていました

・こ放置された子を引き取るママステラは採算度外視です。自腹で病院を周りお世話をしています。お金はないはずですが、喜びがあります。

・ある時はお金がなくなり、食べ物がなくなりました。その時、ママステラは子どもたちに呼びかけて一週間みんなで断食して祈ることにしました。主は必要を与えてくださいました。周りに助けを求めるより、まず神様に求めていました。

・路上に放置されてた子が連れてこられました。お母さんは14歳です。


🔴貧しい彼らが誰にささげるか?貧しいエルサレムのクリスチャンたちへ。


(4-5)

4,聖徒たちを支える奉仕の恵みにあずかりたいと、大変な熱意をもって私たちに懇願しました。

5,そして、私たちの期待以上に、神のみこころにしたがって、まず自分自身を主に献げ、私たちにも委ねてくれました。



この聖徒たちを支えたい、とは、具体的にエルサレムで同じように苦しんでいる仲間たちの意味です。

この時代、エルサレムの教会の仲間たちも同じように激しい迫害に遭っていていました。マケドニア地方の教会のみんなは、エルサレムで苦しんでいる仲間を助けたいし、助けることは神様のめぐみ、神様の力、神様がなさること、それに参加したい、と熱心に願いました。


そのことがローマ15章26-27にあります。


(ローマ15.25-27)

25,しかし今は、聖徒たちに奉仕するために、私はエルサレムに行きます。

26,それは、マケドニアとアカイアの人々が、エルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために、喜んで援助をすることにしたからです。

27,彼らは喜んでそうすることにしたのですが、



エルサレムでもマケドニアと同じように、イエス様を信じます、というとひどい迫害に遭います。それでもイエス様を信じる人たちが増えて行きます。イエス様を信じると仕事を失います。差別を受けます。いじめのターゲットになります。それでも、イエス様を信じる人たちが増えて行きました。



●イエス様と共有することは貧しい人たちと連帯すること


(26)

26,それは、マケドニアとアカイアの人々が、エルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために、喜んで援助をすることにしたからです。



ローマ15.26節の「援助する」はコイノニアという言葉で、共有する、ということです。貧しさを共有する、一緒に苦しむことにした、ということです。連帯することにした、繋がることにした、ということです。しかも喜んで、です。イエス様と繋がっているから、貧しく迫害される兄弟姉妹とも繋がります。


(4)

聖徒たちを支える奉仕の恵みにあずかりたいと、大変な熱意をもって私たちに懇願しました。


この奉仕の恵みに「預かりたい」それはコイノニアという言葉、共有という言葉です。


自分達も貧しいし苦しみがあります。極端な貧しさ、苦しさです。でも、極端に豊かな喜びが、感謝がありました。イエス様のお仕事に参加できるという喜びです。


計画性のある人から見ると、そんな貧しい人が献げるわずかなお金は意味ないじゃん、と思うかもしれません。でも、金額でなく、一緒に苦しみ、一緒に貧しくなり、一緒にイエス様に自分を献げる、という喜びでした。私の全てはイエス様のものです、という喜びです。



(5)そして、私たちの期待以上に、神のみこころにしたがって、まず自分自身を主に献げ、私たちにも委ねてくれました。


まず自分を主にささげた、とあります。

献身です。全部イエス様のものです、という献身には喜びがあります。お金を少し分けてあげる、という感じではなく、全部僕のものではなくイエス様のものです、という感覚です。ちょっと分けてあげる、と思っている人は、自分のものだ、という人です。


イエス様に自分を捧げます、という人は自分も、自分の持ち物も全部イエス様のもの、ということです。

聖霊に満たされた人は最初から全ての持ち物をイエス様のものだと思うようになります。イエス様のものはみんなのものです。使徒4章には聖霊に満たされた初代教会の様子があります。

イエス様に満たされ、イエス様に全部を明け渡すことは、兄弟姉妹と全てを分け合うことに現れます。


(使徒4章32節)

さて、信じた大勢の人々は心と思いを一つにして、だれ一人自分が所有しているものを自分のものと言わず、すべてを共有していた。


主に自分を献げることはクリスチャンたちの必要に自分を献げることと同じことです。教会はキリストの体だからです。神様への献金は、困っている兄弟姉妹に献げることと重なります。献金は献身です。


・ママサラの例

この小屋の中に自分のお子さんの他に2人の孤児を引き取っているママサラです。

岳ちゃんがいくと、コーラ、ファンタを買ってきてもてなしてくれるそうです。お金はないはずなのに、与えることの喜びを表しています。


🔴献金はイエス様への献身


(ローマ人への手紙12章1節)

1,ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。



捧げものとは、生贄です。縛られて祭壇に寝かされて、殺されかけたイサクのように、私たちは祭壇に身を置き、「神よ、私は全てを手放し、ささげます。」言うことです。まな板の鯉です。自分の願いでなく、自分の計画でなく、神様のご計画、神様のお考えの通りにしてください、ということです。


これがマケドニア人たちの喜びです。


5節に「神の御心に従って」これが大事です。「神のみこころにしたがって、まず自分自身を主に献げ、」

これが神様の願いです。イエス様もご自分をささげてくださいました。そして聖霊に満たされた先輩たちも自分を主にささげました。


●献身とはイエス様がなさること。


献身とか、持ち物を全部捧げるとか、無理!」と思います。ところが聖書はそれが無理じゃないと教えています。どうしてでしょう。それは、まず全部捧げて愛してくださっているのは僕らではないからです。愛とか犠牲とか捧げ物はイエス様がしてくださったことです。

イエス様がまず自分の身を捧げて、命を捧げて、十字架の上で苦しんで祈ってくださいました。イエス様こそ献身者です。


あの命を捨てた愛が自分に注がれている、とわかった人は平伏して、感動して、感謝して、自分も捧げます、と思うようになります。源はイエス様です。イエス様のあの十字架の犠牲を思うときに人は変えられます。


イエス様の十字架の前で、イエス様が血だらけで全てを捧げてくださった前で、僕らも捧げたい、と思うように変えられます。全部イエス様のものです。そして与えられているイエス様のものの管理を任されているだけです。血だらけで何もかも捨て、手放して、与えて、命まで与えて愛してくださったイエス様をしれば知るほど僕らは自分から解放されます。感謝と喜びに圧倒され、神様の愛に圧倒されます。それがマケドニアの教会の人たちに与えられた溢れ出る喜びです。苦しみの中でも止まらない献身、献金です。


奉仕も献金も礼拝もイエス様から出てます。あの十字架の犠牲から全てが流れてきます。


(1ヨハネ 3:16)

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。



僕らが奉仕するとき、献金するとき、礼拝するとき、これが感謝と喜びから、つまりイエス様の十字架の愛から出ているのか、それとも義務感とか、プライドとか、よく見せようとか、そのような人間の肉の欲から出ているのか、自分に聞けばすぐわかります。それは献金に見えて実は傲慢だし、奉仕に見えるけど、実は貪りです。


源は喜びです。その喜びの源はイエス様の犠牲の愛です。全てを捨ててくださった愛です。

血だらけのイエス様を思い出しましょう。裸にされ、半殺しにされ、全身傷だらけ、顔は形が崩れているイエス様を思い出しましょう。全部イエス様からいただいた愛です。愛は犠牲です。愛は自分を捨てることです。

そのイエス様の前でほどほどに奉仕しよう、とか、傷つかない程度にしよう、疲れない程度にしよう、そんな駆け引きは消えて行きます。


(1-5)

1,さて、兄弟たち。私たちは、マケドニアの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。

2,彼らの満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあってもあふれ出て、惜しみなく施す富となりました。

3,私は証しします。彼らは自ら進んで、力に応じて、また力以上に献げ、

4,聖徒たちを支える奉仕の恵みにあずかりたいと、大変な熱意をもって私たちに懇願しました。

5,そして、私たちの期待以上に、神のみこころにしたがって、まず自分自身を主に献げ、私たちにも委ねてくれました。



●イエス様の愛か?それとも他の動機か?


パウロがこの話をコリント教会にする理由はその献金とか愛が本物かどうか確かめるためです。つまり自分の見栄とか肉の思いでやってることなのか、義務感とか、立場を守るためとか、そんな理由なのか、それともイエス様の十字架から流れるあの犠牲の愛から出ているのかを確かめるためです。


(8-9)

8,私は命令として言っているのではありません。ただ、他の人々の熱心さを伝えることで、あなたがたの愛が本物であることを確かめようとしているのです。

9,あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。


全部捧げ切ってくださったのは僕らではなくイエス様です。

僕らはそれに感動して、僕らもイエス様の体の一部として一緒に捧げたい、という思うようになるし、それが霊的な喜びです。この喜びは聖霊を受けた人でないとわからないはずです。貧しい人と連帯するのはイエス様の願いです。



(9)

あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。


キリストは私たちの中に住んでいます。

キリストが他の誰かを豊かにするために自分自身を貧しくしたということです。あなたはどうですか?


あなたは私たちに楽しむためにすべてのものを豊かに与えてくれました。楽しむのは良いことです。同時に、私たちがイエス様と繋がっています。私たちはイエス様が願うように歩む必要があります。イエス様が命をかけて愛した人々のニーズを満たすために、自分の時間もお金も手放す必要があります。それは悲惨なことではなく、喜びであり祝福です。

受けるより与える方が幸いです。(使徒20.35)



⭕️捧げた結果。


貧しくなることはありません。

聖書は何度も言います。豊かに刈り取るし、豊かになる、と。


(2コリント 9:6)

私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。


(2コリント 9:11)あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。


ささげることは、イエス様ご自身のめぐみ、愛です。

僕らから出たものは何一つありません。

ささげましょう。主が捧げておられます!